馬の福祉についてこだわる理由 余計なことを書くデメリットは分かってはいるが…

1年半ほど前から馬の福祉についての記事をいくつか書いてきました。

なかには理解を示してくれる人もいますが、書いてる内容で反発を生んだり、あるいは距離を置かれていることも認識しています。

わざわざ角が立つことを書く理由は単純です。

一つは選別に漏れた馬の福祉の問題。速く走れる、あるいは素直な気性の馬は生き延びられますが、気性難であったり、体が弱ければ生き残ることはできません。現実としてこれはどうしようもない。

引退馬支援も競馬も基準が異なるだけで「選別をしている」という点では同じことです。選ばれなかった「それ以外」の馬は「行き場がない」と表現されてしまう。「行き場がない」馬がいるのは人間の都合によるもので、表現を変えても同じこと。人間の都合で産まれてきて、人間の都合で「処分」されます。

「処分」がいかんと言っているわけではありません。気にかかるのは「行き場のない馬」と表現することで、死ぬまで適切な環境で生きられるようにする次善策が遠のいてしまう可能性があることです。

屠殺される動物であっても、できるだけ苦痛を与えないのが動物福祉の考え方です。英仏では屠殺の際も適切に扱われているかを監視するため、屠殺場にカメラが設置されています。「処分」をタブーにすると、こういう施策からも遠のいてしまいます。

馬肉としての「処分」だけでなく、たとえば飼養しきれなくなって安楽死の措置を取るという選択肢も、「かわいそう」から離れないと難しい。

そこで「かわいそう」ではない考え方を広める努力が必要になりますが、動物福祉団体もJRAもそれはしない。

もちろんJRAも引退馬の問題に取り組みを始めていることは承知しています。JRAの責任に言及しているのは、おそらく処分も「あり」とするような広報はしないだろうから、そこから目を背けないようにという意図です。「処分をなくせ」と言っているのではなく、家畜としての利用をひた隠しにしない方向にも動いたらどうよ、というのが根本にあります。

 

二つ目は「馬肉としての利用は構わないんじゃない?」と言いづらいこと。

インタビューなどで、「競走馬は引退後どうなるか知っていますか?」という問いを見かけます。この質問に「いいんじゃないの?家畜なんだし」と、顔を晒して言える人がどれだけいると思います?

競馬を楽しんでいる人でも「かわいそうかどうかと聞かれたらかわいそうだけど、家畜なんだしいいんじゃないの?」という考えの人もいます。しかし顔を晒しては言うのは難しい。私は気持ちが行き来するため答えようがありませんが、仮に馬肉にすることを積極的に肯定する考えだったとしても、顔を晒しては言えません。

競馬好きには「馬肉利用もいいんじゃない?」とは言いづらい「空気」があります。匿名なら言えても、顔を晒しては動物の利用は「かわいそう」の前では、語ることが極端に難しくなります。

例えば競走馬を何頭か持っていた人が、譲ってくれと言われても譲らずに「処分」すると、あたかも悪いことをしているように言われることもあります。その人が「人間にかわいがられる馬もそうでない馬も等しく扱う。自分の馬の代わりに他の馬を引き取ってやってくれ」という考えだったらどう「感じ」ますか?

他の人が何を考えているかは、胸襟を開けるようにならないと分かりません。ひょっとしたら単に面倒だったり金銭の問題だったりするかもしれませんが、それは聞かなければ分かりません。

だからこそ対話が必要なのですが、感情が絡むと対話は極端に難しくなってしまう。対話の前提として「相手を悪者にしない」こと、そして「相手の考えにきちんと耳を傾けること」が必要なのですが、それができないことがあまりにも多いのです。

「対話は重要だ」というのはみんな口にします。しかし実際には、対話の前提を無意識のうちに崩してしまうことが多い。競馬好きの人は少し考えてみてください。競馬反対派の意見にきちんと耳を傾けていますか?それにどう返答していますか?

多くの人は忙しく全てにかかずりあっている暇はないことでしょう。声の小さきものには耳を傾けられない構造はそうやって生じます。具体的な反対運動なり議論にならないと、耳を傾けられることはありません。

少数派の意見には耳を傾けられないのは仕方がない面はあります。だからこそ、せめてものが言いにくい空気だけは払拭したい。このサイトでは賛成も反対も同じ目線に立てるよう、バランスを取りつつ書いています。

 

触れないほうがいいのは承知しているが…

倫理はある面で人間を疎外します。常識に当てはまらない部分も生じます。

倫理は面倒で厄介なもので、触れずにいるほうが安全です。福祉関係の記事を書くたび、投稿するかを迷います。

JRAを含む競馬サークルも支援団体も、倫理など問われないほうがやりやすいと思います。

しかし批判がないと安易な方向に向かってしまいます。私が健全な批判をできているかは分かりませんが、しかし日本はあんまりにも動物福祉に関する議論がなさすぎるよね、という一種の危機感があります。

例えば競馬での鞭の使用について。

海外は海外。鞭の規制を合わせる必要はない!というのも理屈としてはありです。例えば鞭の使用を廃止した国の騎手には、レースがピリッとしなくなったと発言している人がいます。逆になくしたほうが人道的だから人気でるよ?という人もいる。

どちらが正しくて、どちらが間違っているという話ではありません。

鞭の使用規制はヨーロッパに合わせざるを得ないという事情もあります。しかし科学的に本当に馬は痛がっているのかを検証して、その上での「議論」はあったほうがいいと思っています。

 

東京オリンピックが近づけば海外からの動物福祉への圧力が増えて、いつのまにか「動物福祉」が一般化することでしょう。地道に動物福祉を広める活動している人の存在に加えて、今後は事業でも必要になることから、自然とそういう空気になると思います。

でもね、それでいいの?という疑問があります。ここで何も書かずに済ませたら、1年後、あるいは2年後に後悔する。そう思って書いてきています。

 

なぜ動物福祉はなかなか広まらないのか

「なんで馬の福祉について語る人が少ないのか?」という疑問への私の答えは単純です。

面倒だしメリットがないから。

 

夏目漱石の『草枕』の「情に棹させば流される」のくだりは、「この世の住みにくさ」を語ったものです。情に流されてしまうのは好ましからざることなのです。

皆が情に棹さして流されれば、情でしか動けなくなってしまいます。私はこれが現代日本の息苦しさの一因だと感じています。

ところが今は積極的に情に棹をさしてなんぼの世界になっています。

 

情に棹さしたほうがら楽ですが、息苦しさの原因になる。だからこのサイトでは意図的に情に棹ささないように書いています。「かわいそう」では見えなくなってしまうことを避ける意図もあってのことですが、知に働いて角が立ち、意地を通して窮屈さを感じてもいます。

–  知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい –

 

夏目漱石『草枕』

 

宮古馬虐待の記事も、悲惨な画像を掲載してもっとセンセーショナルに書けば受けたと思います。行政や世論を動かすために訴えるためならセンセーショナルにする意味もありますが、すでに報じられて周知された情報をさらに煽る必要はないため、あえて写真なども載せていません。

このサイトで記事にしたのも、SNSでは流れてしまって、あとから知った人が把握しづらいことに気づいたからです。報道機関の記事は削除されることがあり、時系列が把握しにくくなることもあります。3年後、5年後を考えると、どこかにまとめてある方が何かと便利なのですが、他にまとめている人もいない。「誰もまとめないなら自分で作っておこう」と消極的理由で書いたものです。

結果として一部の人には重宝してもらえていますが、センセーショナルに書いていれば同意がもっと得られてメリットが多かったかもしれません。それを自ら封印したことになります。

福祉関係や見解の割れることは一方だけを否定しないよう神経を使って書いています。「これはどうなんだ?」と突っ込まれることはあるとは承知していますが、少なくともバランスを取ろうとはしています。

 

引退馬支援団体の紹介記事についても、積極的に書くつもりはありませんでした。倫理に触れているこのサイトで紹介すると迷惑に感じられるかもしれないからです。

しかし個別の団体について紹介していても、複数の団体を包括的に紹介している記事が見当たらないことがずっと気にかかっていました。

独立した個別の支援団体ではお互いにリンクを張り合うことはできても、「こちらの団体はうちと違ってこうです」とは紹介しづらいところがあります。引退馬支援に興味をもった人の利便性を考えると、第三者が包括的な情報としてまとめてあるほうがいい。

作る人がいないのなら、気づいた自分が作ればいいと作成したのが引退馬支援団体の紹介FAQです。このサイトで紹介していいのか悩みながら、消極的に作ったものです。

「これ書いていいのか」「もっと穏健にしたほうがいいのか」とクヨクヨ考えながら、これで少しでも風通しがよくなれば、と思いつつ書いています。

書いている本人からして悩んでいます。だからこの文章を読んでいるあなたも書かれていることを鵜呑みにせず、それぞれの記事が本当に妥当なのかを考えながら、あるいは一歩引いて読んでください。それこそが私の望むところでもあります。

とはいえ知に働き意地を通す窮屈さを常々感じているので、いずれは当たり障りのないものにするかもしれません。

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。

夏目漱石『草枕』

2 COMMENTS

管理人

明松さん
はじめまして。コメントありがとうございます。
心情的な部分も含めると「答え」は出ないので、自分がどう考え、何を選ぶか、ですね。
生きることと直結する「食」を考えると、「大切に食べる」ことを意識するようになりますね。
お気持ちのこもったコメントありがとうございました。

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明松一推(あけまついっすい)

あけまつと申します。
私は馬が好きで馬の支援のようなものも僅かながら協力をしていますが、一方で経済動物と割り切って馬肉も食べます。
私は、他の魚や牛たち、或いは野菜たちと区別したくないです。
人間は他の命を頂いて生きています。空気と水だけでは生きてゆけません。
しかし食べるからには大切に食べたいです。
競馬も乗馬も祭り馬もセラピー馬も、経済行為。たぶん私が生きている間に答えは出ないような気がします。

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