熊本・藤崎八旛宮秋季例大祭の「馬の虐待」と動物の福祉の問題

藤崎八旛宮秋季例大祭

2018年9月16日に熊本・藤崎八旛宮秋季例大祭の馬追で行われたとされる「馬の虐待」問題のことです。

勇壮な馬追いで知られ、今月あった藤崎八旛宮(熊本市)秋季例大祭の「神幸行列」で、奉納する飾り馬への虐待行為があったとして藤崎宮などに苦情が相次いでいる。虐待の様子とみられる動画がインターネット上で拡散、市も調査を始めた。

問題の動画は、16日の神幸行列の合間に撮影されたとみられ、法被姿の男性らが馬を取り囲み、むちでたたく様子が写っている。

飾り馬虐待に苦情殺到 熊本・藤崎宮例大祭 むちでたたく動画拡散 [熊本県]|【西日本新聞】

 

▼問題の動画

 

この動画がフジテレビ系列のめざましテレビで報道され、市役所にも数百件の苦情が殺到したようです。

 

市動物愛護センターは動物愛護法違反の疑いがあるとして、藤崎宮側に事実関係を報告するよう求めている。

神幸行列では、馬を興奮させて威勢よく見せるため、体をたたいたり、足元を払ったりする団体があるとして、以前から問題が指摘されていた。

藤崎宮の広報担当者は「動画の行為は非常に悪質。馬を虐待して暴れさせる祭りと思われるのは心外」と述べ、近く調査結果を市に報告するとしている。
上述・西日本新聞

 

藤崎宮も問題の動画の行為を非難していることから、鞭で打つのは「伝統ではない」ということで決着してしまっています。個人をやり玉に上げるようなことはしたくないため、あとは動物愛護センターや藤崎宮のアナウンスを見てから考えようと思い、このサイトでも扱いませんでした。

 

なのになぜ、いまさらこのネタを書くかというと、現代ビジネスに気になる記事があったから。

今回のような明らかな虐待や暴力は論外として、伝統行事や異文化には確かに違和感を覚えるものもある。

祭についていえば、危険が排除される現代社会だからこそ、祭礼の非日常的な危険性が魅力的に見えるのも事実だ。

岸和田だんじり祭で、仮にだんじりが軽車両ということで標識前でいちいち一時停止していたら、祭として成立しないだろう(祭の時には道路の特別使用許可をとっていると思われるが)。

しかし、それでは祭を盛り上げるために動物を興奮させるにどの線までならやっていいのか、だんじりを引くスピードはどれくらいまでなら良いのか、あるいは海外の過激な動物愛護団体から攻撃されるイルカ漁はやめるべきなのか、いずれも一概には決められないのである。

熊本の祭りで馬イジメ…深刻な虐待問題から考える「近代と伝統」(岡本 亮輔) | 現代ビジネス | 講談社(3/3)

記事では20世紀初頭~戦前の動物の扱いについての新聞投書を紹介しています。

曰く、馭者(ぎょしゃ)が馬の尻に鞭打つよりも、長良川の鵜飼だの、宇治の蛍狩りだの、優にやさしく聞こえる遊びに動物の虐待を感じる

曰く、「動物を鬼の如く取扱う無知な馬子」と言われるが、牛を殺して肉を食うのもかわいそうだし、野菜や米でも同様だというのである(読売新聞1921年12月15日)。

これらの投書をひいて、筆者の岡本北大准教授は「100年前に議論は出尽くしていた」としています。

 

では、100年前に出尽くした議論が、なぜ今も同じように繰り返されているのか。

「答えが出せない問題だから」というのは理由の一つです。
人それぞれ考えは異なるため「正しい答え」というのはないのでしょう。

しかし、100年前も今も植物と動物を並べる理屈を鑑みれば、植物も動物も同じ生き物という感覚が今なお生き残っている。

つまり全く議論がなされていないということです。

 

どこかで線を引けば、必ず異論が生じて落ち着かなくなります。

たとえば肉牛や乳牛は屠殺されても仕方ないけれど、馬を馬肉にするのはいやだ、という考え方があります。
この場合、目に見えるところで走っていた馬が殺されるのは嫌というエゴによるもの。馬よりも牛の命を軽んじていることになる。

見えないところで行われている乳牛の扱いは問題ないんだね?と突っ込まれます。

「おなじ大切な命」という建前は、馬の方が大事と表明した時点で成立しなくなる。そして命の重さに優劣をつけるなら、他の基準で判断する人を批判することもできなくなります。

動物の愛護にせよ福祉にせよ、自らのエゴにより動物ごとの扱いが異なるのであれば、別の論理(エゴ)で行動する人に対しても、そのエゴを認めるしかなくなります。

たとえばペットショップに反対する人は、牛馬はどうするの?セリにかけられてるよ?と問われることになる。牛馬と犬猫は別だ!と言い切るには、命の重さを同じと考えていない自分を表明することになる。

そういった様々な考えから、動物の福祉の観点から、このくらいというラインをひいたのが動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)です。

現代の価値観と伝統行事では相容れず、対立することがあります。倫理や規範が時代によって異なるため、こればっかりは避けようがありません。

よしとする線引きをしてあれば、動物愛護法にかかりそうな伝統行事があったとしても、どこまでが妥当かという議論ができます。

岡本先生の指摘するように「どの線まで行うことが許容されるのかは一概には決められ」ません。しかし、少なくともどこまで現代では許容されるかを明確にすることはできます。

 

100年前の議論が今もなお有効なのだとすれば、その理由は線引きを避け続けているから。

どうすれば100年前の議論を超えることができるのか。なぜ議論がなされないのか。そこまで踏み込んで欲しかった、というのがこの記事を書いた理由です。

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