引退馬に関する記事で「行き先のない馬」「行き場のない馬」という表現をたまに見かける。「行き場のない馬」とは「屠殺」される馬の言い換えだ。
関係者の間ではこれまで話題にすることもタブーとされていた、引退競走馬のその後。繁殖用、乗用に転身する馬がいる一方、行き場を失い、殺処分という最期を迎える馬も。
https://dot.asahi.com/aera/2020031900104.html
確かに、行き先がない馬は世の中に沢山います。
馬の行き先の選択肢の中に、私の勤めているにいかっぷホロシリ乗馬クラブのような乗馬クラブや、養老牧場があるわけです。https://girls.jbis.or.jp/2014/11/post-8766.html
「行き場のない馬」は、競馬から引退した競走馬に乗馬や繁殖などの用途がない馬のことを指しているが、乗馬クラブで使役されていた馬、繁殖から上がった馬でも同じことである。屠畜などに回されることになり、生きながらえることができなくなった馬が「行き場がない」と表現される。
引退した元競走馬も牛と同様肉になっている。家畜として利用されているのだ。「隠されていた」とか「タブー」であったと言われることがあるが、関係者が部外者に対して口を開かなかっただけの話である。故障した翌日まで治療も施さずに馬肉とされたハマノパレード事件のようなセンセーショナルなことでもない限り、メディアが忖度して報道しなかっただけだろう。
食肉処理されるために生産された牛は、どんな状態であれ「行き場のない牛」と表現されることは稀だ。「行き場のない馬」を用いるには、肉や皮として利用するために屠殺することが間違っているという前提が必要である。牛の食肉利用や乳牛の廃用による屠畜は構わないが、馬の家畜的な利用はいけないという前提だ。
「動物は人間のご飯じゃない」というヴィーガンが「競馬をやめろ!」「馬を食べるな!」というのなら筋は通る。私はヴィーガンではないし、一定の範囲での動物の利用は構わないと考えている。しかし動物の権利を護りたい人たちの「競馬反対!」や「動物を食べるな!」という主張は正しいと思っている。倫理的に正しいし、整合性・一貫性の面からも望ましいからだ。
栄養バランスのとり方は難しくはなるが、私たちは動物性蛋白なしでも健康に生きることができる。「生きるために動物を食う」必要はない。命を奪うことがよくないのであればヴィーガンになればいい。十分とはいえないまでも、今は菜食のみでの食生活のガイドもある。
ヴィーガン以外がこの言葉を使うなら、馬の屠畜はいけないことだが、牛ならばよいとするイデオロギーである。屠殺は馬の行き場ではないというドグマと言ってもいい。
レンダリングにすら利用できない場合は文字通りの殺処分されるだろうが、価格がつくのならば畜産動物としての行き場はあるのだから。
本当にいた「行き場のない馬」
バブル崩壊前後、1万頭を超えるサラブレッドが生産されていた。92年には日本のサラブレッド生産のピークを迎える。
ピークである92年に生産された馬はバブル崩壊により売れなくなってしまった。翌年から生産数は減り始めるが、それでも売れない馬が発生してしまう。
80年代終わりにオグリキャップと武豊によって生じた第二次競馬ブームの影で、文字通り行き場のなくなった馬がいたのだ。
本当に行き場のない馬はどうなるのか。捨てられたり、餌も満足に与えられないといった目に遭うのだ。
肥育業者(馬を肥やす)もいっぱいとなった。肉としても畜産製品としても活用できなくなった状態。これを馬の行き場がない状態と言うのではないのか?
馬産地で90年代バブル崩壊後に起きたこと、馬の過剰生産と淘汰肉になるルートに乗ることは「殺処分」などと言われる。しかし、もし現在、健康な競走馬の大半がなんの活用もされずただ殺され焼かれるだけであるとしたならば、反対する人は増えるだろう。あるいは捨て馬ややせ衰えた馬が多数いたら、サラブレッドは文字通り「ギャンブルの駒」でしかなくなってしまう。
ギャンブルのためだけに生ませ、用がなくなったら何にも使われることなく殺されるのが当たり前であれば、到底受け入れられるものではない。
行き場のない馬をなくしたいなら生産数を減らせと主張するべきである
牛はいいけど馬はだめということに根拠はないだろう。
- 競走馬はかわいがられて人間を信頼して育つ
- 名前をつけられる
- 競馬で人間を楽しませてくれるのだから牛とは違う
こんなことを言う人もいる。しかし和牛は名前つけられ大事に育てられる。乳牛は牛乳をたくさん出してくれたありがたい存在のはずだ。牛乳だけでなく、生クリームやバター、チーズには大量に牛乳が必要になる。生きるために必要でない食物を提供して舌を愉しませてくれている。救うべき対象ではないのか?
競走馬には「ファンがつく」から助けるべきというなら、ファンが納得する馬を助ければいいということになる。救う対象は選択的なものとなるだろう。
好き嫌いでものを言うのは自由だし、「助けたい」という人は競走馬の引退後の支援をすればよい。
それはいいのだが、屠殺以外に「行き場のない馬」が存在することが「望ましくない」ことであるならば、競走馬となるサラブレッドの生産数を減らせというほかはない。
これからいくら馬の引退後の居場所を増やしても、それ以上に誕生する馬が増えれば「行き場のない馬」も増加する。
蛇口を開けっ放しにして風呂桶から溢れた水に気づいて「大変!大変!」と言っているようなものだ。当事者からしたら大変かもしれないが、他人からしたら「蛇口を絞れよ」となる。
サラブレッドの年間生産頭数が2,000頭くらいまでであれば、すべての馬の行き場を確保できるだろう。それまでは競馬をやめるなり反対するのが筋だろう。現実的には難しくても原理的には可能なのだから、馬の屠畜を望ましくないとするなら反対するほかない。
競馬をやめろと言っているのではない。責めているのでもない。引退馬を支援しなくていいと言っているのでもない。
屠畜のルートがあることで、少なくともただ殺すだけの「殺処分」にならず、活用できているという事実にごまかさずに折り合いをつけるべきだと言っているのだ。関係者はかわいいとか大切にしているというのもいいが、どう折り合いをつけているかを示すべきだろう。
これが、迂遠ながらもこのサイトでずっと書き続けてきたことだ。
少なくとも現在の日本の競馬は、馬肉への禁忌がないから続けられているのだ。持続可能性は屠殺によって担保されているのが現状だろう。
ならば「行き場がない」という先にある受け入れてくれる事業者に感謝すべきだろう。
この程度の批判すらできない競馬ライターやジャーナリスト?ばかりでは、引退馬にまつわる考え方や折り合い方の整理などされるはずもない。もっとも彼らは「空気が変われば」しれっと変わり身をするのだろうが。