馬産地で90年代バブル崩壊後に起きたこと、馬の過剰生産と淘汰と結末

バブル崩壊後に馬が売れなくなり、92年頃から大量に生産され余ってしまった馬の『大量淘汰』が馬産地で行われました。

バブル崩壊は91年、翌92年に生産頭数が最大になる。そして淘汰が行われた。見事なまでに景気に一致しています。

30年前のできごとを古い話と受けとるか、たった30年前のことと考えるかで見方も変わるでしょう。

生産頭数が増え、バブルが弾ければ同じことが生じえます。忘れている人も多いかもしれないので、この頃の状況がまとまっている青木玲の『競走馬の文化史』より該当部分を抜粋して紹介します。年代は、この本が書かれた1995年頃が基準となっています。

『競走馬の文化史』はおすすめとして紹介しているので、記事として書くつもりはありませんでした。

この手の話は都合よく用いるとなんとでも言えてしまうため、競馬への賛成反対の人たちが対話をするための土台を作るのが難しくなってしまうためです。

このサイトは競馬への賛成反対両者が人格攻撃や罵りあいではなく、対話をできるようにしたいと考えて、共通の土台となる情報を提供しています(少なくともそのつもりだし、事実どちらからも引用される)。

しかし名古屋競馬のアブ騒動で思うことがあり、書くことを控える意味も見いだせなくなったので、この手の記事も投稿することにしました。

淘汰が行われた時期には補填するための補助金も出されています。客観的なソースがどこにあったか忘れたので、ここでは割愛します。

 

競走馬の生産頭数についてのグラフや数字はこちらにあります。サラブレッドの生産頭数ピークは1992年の10,407頭。その前年と翌年が1万頭前後。それ以降、20年ほど生産頭数は減り続けました。

以下、『競走馬の文化史』『競走馬の文化史』より。


ところが、バブル崩壊とともに価格が暴落、あちこちで「馬がだぶついている」「牝馬では売れない」「肉用にも買い手がつかない」という声が聞かれるようになった。

肥育に向ける軽種馬の値段も、かつては一頭二十万円ぐらいしていたのが、十五万、一〇万……と値下がりした。一昨年には早来の市場で当歳馬が一〇〇〇円でセリ落とされたり、ただでも馬の引き取り手がなく、手数料を払って運んでもらったとか、ついにはそれもかなわず「捨て馬」が出るという、まるで粗大ゴミか産業廃棄物のような話すら、伝わってくるようになった。

この頃から新聞記事の社会面には、華やかなブームの表ばかりでなく、厳しい現場の状況を伝えたものが増えてきた。主な見出しを拾ってみよう。

「憂駿――安楽死など年間一〇〇〇頭。生産過剰やレース不振」(一九九二年五月一〇日、読売新聞)

「ああ憂駿、バブルに泣く――過剰生産のツケ、子馬食用に。当歳馬一頭一〇〇〇円、晴れの舞台、一度も踏まず」(九二年一二月二九日、東京新聞)

「共同馬主会社が”落馬”――「サラブレッド生産で高配当」。一億の焦げつき。バブル後遺症、五頭は食肉処分も」(九三年一月一日、読売新聞)

「買い手付かぬ競走馬――北海道のセリ市。不況と生産過剰ダブルパンチ、三〇〇〇万円希望が八〇〇万」(九三年一〇月二三日、朝日新聞)

「サラブレッド飢え死に――牛久。三頭白骨野ざらし。三頭衰弱、えさ十分与えられず。背景に”馬余り”、競馬ブームの陰で」(九四年六月一八日、茨城新聞)

その後、生産数はやや減ったものの、規制緩和で外国産馬の輸入が増えているから、販路はそう簡単には拓けない。一九九四年度の三歳馬の馬名登録数は、サラブレッド七九〇四(中央三六二四、地方四二八〇)頭、アラブ二〇八一(中央一四二、地方一九三九)頭。この世代が生まれた年、つまり一九九二年度の生産頭数(一万四〇七頭、アラブ二四六七頭)と比べると、サラブレッドは単純計算で二五〇〇頭、事故などを見込んでも二〇〇〇頭ぐらい余っている。

「肉用にも売れない」というのは、円高で肉用馬は海外から安く買えるようになったし、牛肉自由化で、馬肉の相場が下がったことも影響している。

それでも馬は、牧場、育成場、トレーニングセンターなどから、続々と家畜商に回されていく。生産頭数がピークに達した九二年ごろから、各地の肥育場は満杯だが、長年の付き合いがあるから断ることも難しい。

「もういいと言うんだけど、どんどん買ってしまうから。かわいそうという人もいるけど、生産過剰で馬が出るから、うちにくるんです」

久留米の木稲さんの肥育場も、ここ数年のサラブレッドの生産過剰で馬がだぶつき、畜舎に収容しきれない。その日も、入り切れずに外につながれている馬が四頭いた。そのため、ついに畜舎を拡張することになった。

木稲さんは、身内が北海道に牧場をもち、地方競馬ではたくさんの馬を走らせる大馬主だが、近年、そちらの馬の数も増えている。

七〇年代の生産過剰期でも、同じようにたくさんの競走馬が売れ残っていた。

しかし、いったいなぜ、そんなに馬が増えたのだろうか。

このとき、中央競馬会の行ったアンケートでは、馬主が「仔分け制度」(自分の所有する繁殖牝馬を牧場に預ける制度)を利用しすぎた、生産者が頭数をふやしすぎた、コメからの転業で競走馬の生産者が増えた、などが主な理由にあげられている。乳価の低迷で、酪農からの転業があったり、内地資本の大牧場が増えたのもこの時期だ。経済の好況に支えられて、六六年から七〇年にかけて、馬主の数が中央で二倍強、地方で六倍以上に増えていたのも大きかった。

生産過剰の対策としては、「繁殖牝馬の頭数を減らす」という意見が多かった。

このときの余剰馬は、今と同様、肉用に回っていたのだろうか。

答えはイエス。

一九七五年度の屠殺頭数は、一万三八二頭で、前年比23パーセント増。熊本、福岡、長野、山梨、北海道などでは、数がかなり増えている。アンケートによれば、この年、軽種の入場が増えたのと答えたのは、長野、山梨、福島、北海道。

福岡の状況をみると、軽種四〇・三パーセント、中間種二九・八パーセント、重種および在来種十四・三パーセント。競走馬から除かれた馬が、六カ月ぐらい肥育されてくるケースが多く、七十六年の集計によると、三~四歳馬五〇パーセント、三歳以下二五パーセント、五歳以上二五パーセントと、若馬が多いのが特徴だ。健康状態のよい馬が半数近くで、故障馬よりも多かった。この当時と比べると、中間種の馬が減って重種が増えているが、あとは今回、私が聞いた話とだいたい符合しているようだ。

このときは結局、地区ごとに繁殖牝馬の頭数削減が行われたのだが、その後また増加に転じて、今日の事態を招いている。バブル景気にわく馬産地が、高額な種馬や牝馬をつぎつぎと買い付けるのをみて、「これでは前回の繰り返しになる」と警告を発した人は少なくなかった。それでも結局ブレーキはかけられず、自由競争に任せていたら、競走馬もキャベツと同じメカニズムでしか需給調整ができないという厳しい現実が、またも明らかになったのである。


以上、『競走馬の文化史』より。

過剰生産といっても、買い手がいれば売れていました。レースに出られるか出られないかの違いです。

「売れる売れない」は、出走できるかどうかの違いです。レースに出たからといって「処分」されないわけでもないことは留意してください。

 

こちらの本には肥育と屠殺場について詳しく書かれています。

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