青木玲著『競走馬の文化史 ー 優駿になれなかった馬たちへ』は、産業動物としてのサラブレッドを軸として、日本人と馬との関係を歴史的経緯と情の両面から綴っています。
このサイトの種本的な存在です。作り始めたころから紹介したいと思っていたのですが、内容が多岐に渡っているためにどう紹介したものか考えあぐねて先延ばしにしてきました。
出版は20年以上前の1995年とかなり古い本のため、出版時からは大きく変わったところもあります。
たとえば現在では引退馬支援をJRAが行っているし、引退馬支援組織も多数あります。馬に直接触れない人でも、SNSなどを通じて支援している馬の近況を動画で観ることができるようにもなりました。
その一方で変わらない部分もありまさ。たとえば引退馬のほとんどが「お肉になる」のような直接的な表現を使わないこと。JRAの外国在住者向けの資料には「馬肉になることがある」と書かれていますが、ファン向けページにはそんな文言は一切ありません。
報道などでも「行き場がない馬」「行方が知れなくなる」といった婉曲表現が用いられています。
古い本ならではのいいところもあります。オグリキャップと武豊といったスターの登場により発生した第二次競馬ブーム(1980年代末から1990年前半)の真っ只中に書かれたため、ギャンブルからロマンに変質した時期が非常に分かりやすくなっています。
第二次競馬ブームの直接の原因はスターの登場ですが、80年代の急激な馬券売上の増加は、1979年から解禁された公営ギャンブルの広報活動の結果でもあります。
ギャンブルの宣伝が解禁された1980年代からは公営競技のイメージ戦略が行われるようになり、とくに日本中央競馬会はイメージCMに力を入れてギャンブル色を払拭しました。
払い戻しなどが原因で起きた暴動を、馬、動物、自然、歴史、ロマンといったキーワードで、ギャンブルにまつわるイメージを上書きしています。
どのCMも「日本の競馬」という日常から離れ、自然の中で走る馬や、長い歴史に裏打ちされた競馬の伝統に思いをはせることで、ギャンブル色を払拭してしまう。
今観ても非常によくできています。
CMによるイメージの向上ばかりでなく、女性有名人を競馬中継に招いたり、レディースデーを設定するなど女性への訴求も怠りませんでした。その結果、1984年には6.7%だった女性入場者数は1990年は10.3%、1993年には11.8%と着実に女性客を増やしています。
JRAの戦略は「女性客が増えれば男性も増える」を実地でいったものといえます。
第二次競馬ブームは、オグリキャップや武豊といったスターの登場と、10年来のイメージ刷新の取り組みの結果到来したものです。
競馬からギャンブルというイメージが薄れてロマンや夢を託す時代になると、引退後はお肉にされる「経済動物」としての側面は不要となります。
「経済動物だから」ではすまなくなったため、むしろ邪魔なものとなってしまう。
そのため競馬が女性や若年層にも広まってヌイグルミまで販売される時代には、生臭い「屠殺」という言葉は慎重に排除されるようになります。
そうして大半の馬が屠殺される事実は、巧妙に陰に追いやられてしまいました。
イメージ戦略の功罪について、著者はこう記しています。
p50
歴史上、人と特別きずなを結んできた動物、馬のイメージには、それだけで私たちの心を強くとらえる力がある。たぶん競馬広告は、八十年代後半にそのことに気づき、そのイメージを自由に操ってきたのだろう。それは、私たちが忘れていた馬の魅力を思いださせ、競馬の売上を伸ばすことには役立った。けれどもその反面、本来もっとゆたかで陰影のある人と馬との関係を、「競馬のロマン」という一点に収斂させて、過酷なサバイバルの実態をおおい隠す役割も担ってきたのではないだろうか。
書かれている内容はもっともですが、「もっとゆたかで陰影のある人と馬との関係」は、馬が生活のために必要であってこそ生じる関係ではないかという疑問も生じます。
もし「豊かな関係」が馬が生活の糧であってこそ芽生えるものだとすれば、CM製作者も屠殺という実態を隠していることに無自覚なのかもしれません。
馬の命運を握る立場であったり、馬に携わる仕事をしていて「処分」に送り出す人にとってはリアルであり続けている。しかし競走馬の生産育成が生活に関わらない人にとっては、陰はそれほど強くならないかもしれないのです。
p152
私は別に、「馬を肉にしてはいけない」などとは思っていないし、これまでにも、そんなことは一度も言ったことはないし、引退馬に転用先をみつけてやるのがどんなに難しいかもよくわかっている。ただ、関係者、とくに公の機関やマスコミは、そのことを隠すのだけはやめてほしい。とくに、八〇年代の競馬ブーム以降、こうした「ややこしい話」を避けたがる風潮が強くなっている気がする。
「競走馬は、最後は肉になって国民の食生活に貢献しています」
などという宣伝コピーはありえないと思うけれど、事実はその通りなのである。
競走馬といえども、いったん登録を抹消され後は、血統も成績も関係ない、ただの馬。
「あんなに活躍した馬だから、絶対大事にされるはず」
「こんなにきれいなのだから、乗馬になっても可愛がられるだろう」
など、競馬ファンが抱きがちな甘い考えはまず通用しない。経路がどんなに美しくても、性格がどんなに素直でも、いったん肉用へのルートにのったら、そこから抜け出すことは難しい。競馬で稼いでこそ、競走馬である。そんなことでいちいち馬を助けていたら、乗馬クラブも家畜商も生活が成り立たないし、現状では、馬主のなりてもいなくなるかもしれない。
「畜産振興」(競馬の売上は多くがこの目的にあてられる)という立場からすれば競馬ファン獲得のためのイメージ作戦と、元競走馬の肥育利用は、何の矛盾もないのだろう。表と裏を使い分けたこのような馬の扱いが正しい、と思う人はそれでいい。でも、何かが忘れられていないだろうか。
競馬の表舞台で活躍した競走馬が、その後、引退して「乗馬」になったと発表される。ところが、それは実は肉用へのルート……というのでは、皆に治療だといつわって、同志でである馬のボクサーを処分する、ジョージ・オーウェルの「動物農場」と同じではないか。
「競走馬の馬肉化」を隠す習慣は、ひとつひとつの現場では、相手への心づかいから始まっていることかもしれない。でも、人の気持ちに配慮することと、全体としての真実を隠すこととはちがうのではないか。行き場のない馬が馬肉として利用されるということは、競馬ファンも含めて、私たちが受け止めなくてはならない現実であり、それを「隠すこと」はアンフェアである
現在では引退競走馬が肉になることを「隠す」ことは減っていますが、直接的に語られることもまたきわめて少ない。
そして見ないふりをすることが多い点では、今も昔も変わってないのかもしれません。
ここまでに触れた内容は、第一章「競馬の時代」に書かれています。
二章では日本での歴史的馬の利用をひも解き、第三章では屠殺という「淘汰」を、第四章では引退競走馬と文化としての馬肉について触れています。
内容が多岐に渡るため全てを紹介するのは無理!
というわけで目次に興味のある項目があったら一読してみてください。
目次
- 序 競馬との出会い
アローとムーティエ/ブームへのとまどい - 第一章 競馬の時代
- 空前のブームの中で
オグリキャップ/光と影 - ブームはどのように生まれたか
かつて競馬は社会悪だった/宣伝規制/ギャンブル廃止宣言/ハイセイコーの功績/広報活動の解禁/伸び悩み/スターホース誕生/イメージ戦略 - 女性・若者向けのコマーシャル
雨の引退式/スポーツ性 - 馬と人の織りなす世界
安らぎと夢を求めて/舞台演出/馬と人と/横断幕とコール/ヌイグルミになった競走馬/追っかけ・牧場めぐり/血糖のロマン - 忘れられた部分
大量報道/消されたノイズ
- 空前のブームの中で
- 第二章 つくられた馬たち
- 国策としての馬づくり
ガラスケースの中の馬/馬産農家の暮らし/近代国家の強い馬づくり/日本馬の血を入れかえる/去勢の義務付け/産地の抵抗/白い開拓/馬産奨励のかげで - 馬たちの戦争
「愛馬の日」/背中に日の丸をたてて/「めんこい仔馬」 - 競馬への期待と失望
馬券の黙許/馬を駆けさせると元気になる/こんな馬ではいかん/戦時下の競馬/馬の涙/戦争が終わって/その後の木曽馬
- 国策としての馬づくり
- 第三章 淘汰の思想
- 夢のゆくえ
肥育場で/最期の家/肉用馬/競走馬からの転用/馬の取引/代替馬/登録抹消馬の行き先/名馬の余生/すれちがい/捨てられる馬 - 馬を食べる
馬肉利用のはじまり/戦後の馬肉消費/ハレの料理/タブーの功罪/馬を食べる文化、食べない文化 - 競馬の世界を離れて
時代を写す鏡/産地からの手紙/私たちにできること
- 夢のゆくえ
- 第四章 馬のいる場所
- 競走馬の立場
競馬は淘汰か/短命化/狭き門/馬を受け入れる側の条件 - 馬をいたわる
功労軍馬/「あはれみ」の時代/動物の福祉/サンクチュアリ/馬との別れ - 再出発
優駿になれなくても/馬の体はあたたかい/命の尊さを伝えたい/広がる交流/野生に還って
- 競走馬の立場
- 序 競馬との出会い
- あとがき
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