「批判」と聞くと、嫌なことと考える人が多いですが、やっはり必要なんですね。痛いところを突いた批判が増えると、当事者は「なんとかせないかん」となって改善するんです。
ムチの使用回数規制や薬物禁止などは、社会からの批判によって実現したものです。
ただし「海外では」です。
日本でも同様の規制はされていますが、これは海外の状況にあわせたもの。
批判は個人がポツポツとしていますが、変革の力になるようなレベルではない。
批判をネガティブに捉える人がいますが、変化のためには必要なのです。
外からの批判の必要性
批判されたらふつうは嬉しくない。
もちろん筆者も批判されるのは嫌です。気分がよくないし、へこむこともある。しかしそれがまっとうな批判なら、改善する契機になります。
外部から批判がないと変われないことも多い。動物実験が減ったことは、まさに動物福祉・権利運動によってなされたものです。動物運動関係はデマも多く、伝言ゲームで変わっていたりするので信用しにくかったり、ウサン臭く見えることもあります。しかし、まっとうなところもある。
中から変えるべきと言う人もいますが、例えば獣医学部の例を参考にすれば、それが難しいことも多い。
獣医学部では、動物の扱いに疑問を持つ学生のことは無視され、告発で表沙汰になるケースもあります。
大阪府立大も外科実習で、同じ犬を3回開腹・開胸手術で使っていたことが分かった。
同大に今後の方針を聞くと、岡田利也獣医学類長名の書面で「18年4月から外科実習の犬を半分に減らす予定」と回答があり、今年再び質問すると、「19年4月以降、外科実習で実験犬を用いておりません」(岡田氏)とのことだった。
実験動物の実習について、獣医大卒業生は「医学部では、生きている人間を手術の練習台にせず、御献体を使い、臨床実習で学ぶ。獣医学部なら動物を犠牲にしていいとは思いませんでしたが、教員に理解してもらえず、仕方なく授業を受けました」と打ち明けた。
(略)
このような実習に疑問を抱いている学生が気持ちを吐露した。
「どの実習も殺すほど必要だった、と納得したことがない。今は優れた模型もあり、代替法や動画で十分学べると思う」
「教員に実習の必要性について尋ねたら、『必ずしも必要ではないが、まぁやっとけば』『私もよく分からない』と返ってきました」
「教員から『自分たち専門家は一般の人と考え方が違う。外で実習の話をするな』と言われました」「明日殺されるのに…」獣医大の驚くべき実態、学生たちの苦悩(森 映子) | 現代ビジネス | 講談社(3/6) (ismedia.jp)
もちろん、自発的に変わるところが多いのですが、外からの批判がないと変わらないこともある。
痛いところを突く批判が必要
根拠がなくても多数がダメと言えば実現するかもしれませんが、社会の関心事とならないと難しい。多数でないならばどうするか。
批判される側にとって痛いところを突く必要があります。
例えばムチの使用。「ムチは痛そうでかわいそう」という心情は分かっても、痛いかどうかは分からない。馬は大きいから、人間ほどには感じていないだろうという人もいます。痛くないなら問題ないわけです。なら確かめてみればいい。
「適切な動物の扱いをする」と言っている団体であれば、「痛がってる可能性あるよ?」「あんま意味ないよ?」という結果を提示されれば変わらざるを得ないわけです。
そのためには、客観的な事実に基づいた指標が必要になるわけです。客観的に好ましくないことが示されれば、反対する人が増える可能性も高まるので、改善されやすくなる。
昔の競馬動画を見ていると、ムチ使用回数の多さに違和感がある。昔の人には当たり前であったことも、今では違和感が生じる。私たちの感覚も、気づかないうちに変わっていくのです。
引退馬の扱いへの批判方法
人間は動物を利用しています。繁殖させることを「生産」と言いますが、人間の都合によって産まさせているものです。野生動物は増え過ぎる、あるいは減りすぎたりして思うようにはいかない。
しかし家畜は人間の都合によって増減させるので、一時的な過剰・過小はあっても、基本的に安定します。畜産製品は、バターのように原料の使用用途によって余ったり足りなくなったりということで品薄になったりしますが、家畜そのものの数はコントロールされています。
「家畜を利用している」ことを是としている以上、「命の大切さ」を持ち出しても説得力はない。
「牛は人間の食べ物じゃない!」という人の言うことを無視したなら、「馬は人間の食べ物じゃない!」と言ったところで無視されて当然です。
もちろん、感情論や心情のみでも、同じ考えの人が多数派になれば実現しますが、それはおそらく難しい。
競馬から引退した馬の屠殺を否定するなら、生産を減らす必要があります。毎年2千頭、3千頭を引き受けるキャパシティは、現段階では考えられない。
かりに目処が立ったとしても、移行に非常に時間がかかります。その間はどうしようもないため、屠殺を否定するのは無茶です。餌も満足に与えられない、あるいはケアされない馬が発生するだけです。
筆者は「現段階で屠殺を否定することは無理だから、ありとするしかないじゃない」ということで記事を書いてきました。
無理なことを要求したところで実現はしないし、今の頭数で「殺処分」される馬をなくすことは不可能です。
批判は一貫性がないと説得力がない。筆者は怪しい情報は怪しいと指摘して、競馬批判の一助となれば、と思ってデータも出してきたわけです。
議論だけではなんともならないが、共通認識は必要
議論は意味がないという人が少なからずいます。しかし、批判の矛先がバラバラでは、批判される側は楽なんです。「いや、こういう考えがあるし」で逃げることができる。
「貴重なご意見ありがとうございました。今後の参考にさせていただきます」で終わり。
多くの事柄は、ゼロイチで割り切れるようなものではありません。人はそれぞれ異なった考え方をしている。ただ、「この点で同意できる」ということであれば、まとまった力になりえます。
その同意できる点を探るためには、意識的でないにせよ「議論」が必要となるのです。
共通認識や理解といったものを軽視しがちですが、ある程度共通の認識を共有することになる思想は非常に強い。
経済政策は、経済思想によって大きく変わるのは実感していることでしょう。新自由主義がうまくいかなくなったところにMMTが出てきて話題になっていることからも分かりますよね。
経済理論はあくまで理論なので万能ではないし、MMTはケインズの流れを継承するものなので、政策に反映するかはまた別の問題があります。
動物の扱いも、思想によって大きく変わってきました。45年前に出版されたピーター・シンガーの『動物の開放』は、動物の扱いが変わることに大きく寄与しました。日本で2011年に出版された改訂版には、その間に起きた出来事も収録されています。
きちんとした批判は社会を変えてしまうのです。
虐待(ネグレクト:飼育放棄)と思われるレイズアスピリット問題にしても、きちんとした批判が必要です。責任は個人にありますが、適正でない牧場への放牧は禁じるとか、何かあったら所属競馬場が乗り出すといったレベルでの扱い改善はできるんじゃないでしょうか。