動物の福祉 - 肉食文化を背景とする動物の扱い

肉

「動物の福祉」という考え方があります。人間が動物を利用することを前提として、できるだけ苦痛を与えないよう配慮する考え方です。

動物福祉では、できるだけ苦痛を感じさせない動物の扱いを目指します。食べるために家畜を育てたり動物を実験に用いることを否定することはありません。

日本で「動物を大切に扱うことを目指す」と聞くと動物愛護を思い浮かべますが、その他にも”動物福祉”と”動物の権利”という考え方があります。

  • 動物愛護
  • 動物の福祉
  • 動物の権利

動物愛護は「動物を大事にしましょう」という考え方。厳密な定義はありませんが、愛護は犬猫といった愛玩動物(ペット)を主な対象として、「かわいがる」方法を広める活動です。

動物の権利は動物にも一定の権利があるとする考え方で、人間による動物の利用も疑問視されます(人間による搾取とみなす)。ペットを含む動物を飼うことを否定する人もいます。

愛護・権利いずれも「人間が利用する家畜」としての動物について言及するのは難しいところがあります。愛護ならかわいがるという側面から、権利は利用を不適当とみなすためです。

この項では、動物の利用を前提とする「動物福祉」について考えます。

動物福祉の基本的な考え方は次の5つとなります。

  • 飢えおよび渇きからの自由(給餌・給水の確保)
  • 不快からの自由(適切な飼育環境の供給)
  • 苦痛、損傷、疾病からの自由(予防・診断・治療の適用)
  • 正常な行動発現の自由(適切な空間、刺激、仲間の存在)
  • 恐怖および苦悩からの自由(適切な取扱い)

欧米での家畜・ペットの扱いは、基本的に動物の福祉が前提となっています。

動物福祉の源流はイギリスで1822年に制定された「牛に対する残虐と不当な扱いを防ぐRichard Martin法」にまでさかのぼります。家畜への虐待を防止するために制定された法律でう。

この法律に合わせて24年に設立されたのが王立動物虐待防止協会(RSPCA)です。当初から、法律違反者をみつけては、法廷に立たせていました(イギリスでは私人が刑法違反の訴訟を提起できる)。

RSPCAは”The Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals”の略。王立動物虐待防止協会の名前の通り、動物の虐待を防止するための団体であり、安楽死を否定していません。

RSPCAのRoyalについて
イギリスのRSPCAは一般に王立動物虐待防止協会、または英国動物虐待防止協会と訳されることが多いようです。

英国について

RSPCAの範囲はイングランドとウェールズのみに限定されています。スコットランドにはSSPCA、北アイルランドにはASPCAという別の組織があります。行政と同じようにそれぞれ独立しているため、RSPCAは英国と訳すと混乱するかもしれません。

Royalについて

RSPCA以外にもRoyalを冠する組織は多々あり、おおむね王立とされています。しかしその組織の設立にも運営にも王室は関わっていません。パトロンとして参加はしていても、運営そのものに携わっているとは限らないのです。

Royalは”Royal Charter”により組織の名前に入れてもいいよと言われた組織がつけているものなので、Royalは「王認」と訳するのが望ましそうです。

動物の虐待を禁止したのも「家畜の扱い方」を是正するためであり、人間が動物を利用する畜産動物の生産と利用を否定するものではありませんでした。

 

人間と動物を決定的に分ける肉食の思想

肉

ヨーロッパの食文化は家畜の利用を前提としています。生産性が低い時代には肉を口にできなくても、卵や乳製品として動物性タンパクを摂っていました。海があるなら海産物もあるけりますが、なければ限られてしまう。

鯖田豊之『肉食の思想 ― ヨーロッパ精神の再発見』では、ヨーロッパは低温少雨の地域が多く穀物生産率が低かったため、野山に放牧された家畜が食料源の中心になったとしています。

コメのような収率の高い穀物が育たなかったため、主食と副食の境界も曖昧となり、家畜を食べるということもしごく当たり前のことでした。

現代でも欧米文化では主食と副食の区別がはっきりしません。ジャガイモやパンが主食に見える地域でも、「主食」の意識はほとんどありません。

家畜は農耕・開墾・荷物運びといった労働力として人間と共にある一方で食料にもする。生活の場のすぐ横にいる動物の命を奪う行為には、動物と人間の間に決定的な差異が必要となります。

土地の生産性の低さに加えてキリスト教の人間中心の考え方も相まって、人間と動物の間に隔たりが形成されます。

ペットであっても人とは全く異なる存在として認識されているため、日本の動物愛護とは考え方は大きく異なります。

欧米では人間の動物に対する絶対的優越はっきりしているのですが、その感覚は必ずしも自然に芽生えるわけではありません。

たとえば映画『子鹿物語』では、主人公ジョディはかわいがっていた鹿が成長とともに作物を荒らすようになってしまう。害獣と化したために、親に殺すように命じられます。ジョディは拒否していたものの、追い詰められ自らの手でトドメを刺すことを余儀なくされます。

ジョディは悲しみから家出をしてしまいます。しかし再び家に戻ると、人間と動物の絶対的な断絶に折り合いをつけて日常の生活に戻ります。かわいがっていた動物を殺すことで「成長した」という成長物語なのです。

日本のアニメで知られる『あらいぐまラスカル』もまた、野生と人間の断絶と、それに向き合う少年の苦悩の物語です。

子どもの頃は人間になついていたラスカルも、成長するにしたがいアライグマの本能が強くなり、畑を荒らすようになってしまう。閉じ込めようとしてもうまくいかない。野生の強い種は人間社会で共生できないという現実が立ちはだかります。

そして大人は捨ててこいという。少年は飼い続けたい。

共に生きることはできないと悟ったスターリングは、ラスカルを森の奧に捨てる決断をします。

原作である『ラスカル』は著者のスターリング・ノースの実際の経験に基づいて書かれた物語。ペットとしての立場を受け入れる犬と、そうでない動物との決定的な違いをも際立たせています。

欧米であっても動物と人間の断絶は必ずしも自明ではないのです。動物と人間。どこかで袂を別つ経験をすることになります。

動物と人間は決定的に違う

人間と動物は決定的に違う。

この考え方が食肉文化には必要であり、動物の福祉とも矛盾しない思想に繋がります。

ペットの飼育のための条件が厳しく定められている北欧などの施策も、動物への苦痛を取り除く努力を前提としています。
しかし家畜を人間のために利用することにはためらいはありません(動物を利用するのが嫌な人はビーガンになる)。

また、甲殻類にも痛みを感じるとする研究が増えたことから、スイスではエビを調理する際に、痛みのない方法で殺すよう定めた法律が施行されています。

欧米は動物を利用することにためらいのない人間中心である一方、できるだけ理念に基づこうとします。

 

はっきりない動物の「利用」範囲

ホルスタイン

動物福祉を越えて本気で動物の命を大切にするなら、乳がでなくなった乳牛も生かし続ける必要があります。

現在のように乳の出が悪くなったら肉にすることはできなくなります。

牛は10年以上生きるので、寿命を全うさせるなら牛乳や乳製品の価格は10倍になるかもしれません。

ペットフードに入れる肉も不足し、こちらも高騰することでしょう。そもそもペットフードに肉が入っていれば、ペットの餌のために家畜を利用することになってしまいます。

犬猫と同じ扱いを畜産動物にも適用するなら、肉だけでなく、卵、乳製品も含め食べることは叶わなくなります。せいぜい農家が自分の家と知り合いに分ける程度しか取れないでしょう。つまりほとんどの人はビーガンになるほかありません。

犬猫とそれ以外の家畜の間で線引きをするなら、「牛や馬が市場で売買されるのは非難されないのに、ペットショップで犬猫を売り買いするとなぜ批判される?命の重さに優劣をつけるのか」に反論することは難しい。

「飼い主の責任として飼えなくなった犬猫を保健所に連れて行く」と考える人は、「無責任だ」という非難は不当に感じるでしょう。

家畜は適切に「管理し、利用されている」から牛豚を殺してもいいとするなら、「犬猫の肉や皮も利用すればいいのか」という話になってしまう。

肉を食べていて、もっと言えば牛乳を飲んでいながら「動物を殺すのをかわいそう」で他人を批判するのはダブルスタンダードになります。

人間に動物の殺傷与奪権かあるからといって何をしてもいいわけではない。動物の福祉は、どこまでをよしとするかの「客観的」な基準としても機能するのです。

アイデア、ドキュメント動物の福祉や扱いについて議論をするために必要なこと個人が引退馬を引き取るときの不安、そして環境改善の課題と畜場に運ばれた動物は殺されることが分かるのか?怖がるのか?競走馬残酷物語競馬は残酷なのか 残酷とは何かを考えることから始める

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