この記事は倫理に触れており、一般的な感覚から外れたことが書かれています。
誤解が生じそうなところにも注釈を加えていません。
馬を中心とした動物の福祉についていくつか記事を書いてきた。ほとんど読まれないだろうと思っていたのだが、ありがたいことに想像以上にアクセスがあり、ときおりシェアをしてもらえてもいるようだ。
馬の福祉について考える人が多いことはありがたく、家畜・産業動物とペット(愛玩動物)の扱いの違いが公平性に欠けることを意識してもらえるようになったら嬉しい。
一方で気にかかるのが、その先にある動物一般の福祉や動物の利用を考えるための回路がないこと。動物の利用は一般に経済動物としての畜産を考える人が多いが、ペットも動物の利用の一形態であるというところまで踏み込めず、読んだだけで終わってしまうのではないかと感じている。
私は動物の倫理からすれば功利主義的であり、肉を食べたり競馬を楽しんでいる。犬猫がペットとして利用されることも違和感はない。
ペットショップも適切に運用されているなら否定するつもりもない。ご都合主義であることは重々自覚しているが、肉のうまさには抗しがたい。
もちろん殺処分される犬猫はかわいそうだし、処分0になればいいと思う。同時にファクトリーファーミングで生産される豚や鶏などもかわいそうだとも思う。
どれも”かわいそう”であり、種差別を前提としなければ”かわいそう”は解消できないことに自覚的であるから、逆説的に犬猫の殺処分も否定できないと考えている。
個人的に「倫理的にどうなのか」と問われれば、種差別できる根拠はないとしか答えようがない。もっと根本的な問題として動物の利用についての倫理性を問われれば否定するしかない。
ペットとして動物の自由を制限し、繁殖も人間の意のままに行われる。コーギーなどの遺伝的問題はいわずもがな。遺伝病に配慮していても利用していることには変わりがない。
家畜として利用されているのは、人間に利用しやすい種のみという事実がある。アライグマもシマウマも家畜には向かないのだ。
8週間であれなんであれ犬猫の親子を人間の都合で引き離し、人間に依拠させるよう教え込むことも倫理的によしとすることは難しいと考えている。競馬も人間のエゴとしかいいようがない。
動物の権利を全面的に認めれば解決するのかといえばそうでもない。人間が原因で生じる温暖化による種の絶滅(プエルトリコでは40年間で60分の1になったという)を考えれば、アンチナタリズムの方がより合理的であり、不要不急の外出、とくに観光を控えるのが生態系への影響は減らせるだろう。
私が動物の利用に痛痒を感じないのは、倫理よりも歴史や伝統を重んじているからだ。温暖化がティッピングポイントを過ぎても仕方ないと諦めるしかない。
今の生活を捨てない限り、私達は人為的な環境破壊による咎から免れることはできない。人間の生活は、人間以外の種を差別的に扱っているからこそ成り立っている。
人間も動物であり弱肉強食をよしとするなら、ファクトリーファーミングの何が悪いとなるだろう。
先述した「そこで終わってしまう」というのは種差別の問題で、動物の利用から種による扱いの差を考えるためのチャンネルが見当たらないのだ。
もちろん客観的な動物の福祉の考え方は書籍にもウェブサイトにも見つけることはできる。しかし馬のように経済動物でもあり、愛玩ではないにしても愛される動物の扱いについて、肉体(感情)に近いところから日本人にあった理屈につながる回路がない。
種差別について考えることができないと、どうしたって「屠殺される馬はかわいそう」「牛や豚食ってんのに、なんで馬を食っていけないのだ」の応酬になってしまう。
動物の権利団体では理屈が説明されていることが多い。
しかし動物の福祉や愛護では、福祉の要件は説明されていても、なぜ犬猫の殺処分は好ましくなく、ファクトリーファーミングとそれに続く屠殺はかわいそうではないのかを説明されていない。当然ながら動物の利用をどう捉えるべきかといった思想を見つけ出すことはできない。
内部の勉強会であったりシンポジウムなどでは触れられるのかもしれないが、ネットで詳しく説明されているところは見つけることはできなかった。
「日本では動物の福祉の議論が進まない」などと言われるが、議論の土台への道筋が示されていないのだから当然の結果だろう。自覚的な関心があれば本を手にするだろうが、その手前で足踏みしているのだからすすみようがない。
理屈は大事
理屈の必要性を述べると「理屈はどうでもいい。行動が大事」「頭でっかちでは物事は進まない」と言われることがある。
「ここをこうして欲しい、ああしてほしい」と具体的に示せる範囲であれば、行動するほうが早い。しかし行動が及ぼせる範囲は極めて狭く、相手も変えることに同意していることが前提となる。
歴史的にも大きな変革には、行動だけでなく思想的な裏付けが伴う。日本で言えば、市民革命を起こした加賀の一向一揆は浄土真宗、幕末の夷狄排斥は「尊王攘夷」、維新政府は英仏独の近代思想と制度を取り入れている。明治の民権運動などは、自由主義思想に基づいている。
戦前の思想犯も戦後の学生運動も思想に依拠している。
そもそも動物の権利も『動物の解放』により広まったことを考えれば、理屈こそ大切なことは明らかだ。
『動物の解放』は理性に基づくため国を問わないが、食肉を前提とする国から渡来した「動物福祉」は日本では身の丈に合っていないと感じることがある。
江戸時代はジビエを食してもいたし、そもそも狩猟採集時代は狩りをしていたのだから、日本とて肉食がまったく無かったわけではない。
一方で牛馬は労働力であり、食用として自覚的には用いられていなかったことや、生類憐れみの令や無用な殺生を避け四足を食べることへの禁忌から、制度面ばかりか心理的抵抗があったという歴史もある。
江戸時代のペットブームでの動物の扱いがどうだったのかは分からないのだが、たとえば猫はネズミ捕りの実用性ばかりでなく、愛玩動物としてのペットとしての位置づけもあったように思われる。
他方、欧米では人間と動物はまったく違う存在としてある。どこまでを食べる対象とするかの線引きは一定しておらず、さんざん油のために乱獲をしておいて、唐突にクジラを食べることに目クジラを立てるようにもなった。
だからといって人間の位置は特別であるという事実は変わっていない。
人間とペットは決定的に断絶している欧米と、同一線上にある日本では、ペットの扱いの根本思想も異なる。日本的なSOLと欧米のQOLも大きく異なっており、安楽死についての認識も異なる。
競馬であれば日本ではタマタマを取ることに抵抗がある人が多いようだ。「他の家畜はみんな取られちゃってるのだがなー」と思うのだが、去勢へのある種の心理的抵抗は、歴史的に動物を去勢をしてこなかったこととも関連しているのかもしれない。
日本的な感覚に福祉や権利の概念を持ち込んでもお仕着せ的な説明に映りかねないため、このサイトでは日本的な感覚に寄り添えるように書いている。
食肉のパラドクスをそのままの形で持ち出せば、読むのをやめる人も出てくるだろうと考えている。そのため肉体に近いところから書こうとしているが、実はかなりつらい。
それでもなお、諸々の日本的な動物と人間の関係を踏まえた上で、どこが課題となるのかを日常に近い言葉で説明し、考える場が必要だと感じている。
共感の限界
屠殺される動物は”かわいそう”というのは素直な感情だろう。屠殺される運命にある犬猫の写真を目にすれば見るに堪えない感情に襲われる。かわいそうと画像つきでつぶやけば、いいねやリツイートが増えるだろう。
しかし屠殺がかわいそうなら、なぜ牛乳を飲めるのか、とはならない。屠殺がかわいそうなら、乳牛の運命は過酷としか言いようがない。なぜスーパーで売っている牛乳を目にして、かわいそうという感情が生じないのか。
ペットと経済動物としての家畜は違うという反論はあるだろう。しかし何が違うのか。
犬猫も人間に利用される経済動物と考えている人からは、犬猫も豚も牛も鶏も等しく経済動物だ。
感情論以外で犬猫は違うと説明するのは難しく、感情論で納得させるのはなお困難だ。
共感の難しさ
このサイトではタマタマネタが多くて恐縮だが、タマタマを強打した痛みは、言葉にするまでもなく男性には通じる。股間を蹴られたり、ボールが直撃するシーンを目にすれば、男性はタマタマが縮み上がる思いをするだろう。無意識に手で股間を防御しようとするかもしれない。
男性ならこの動画を観れば、その痛みに共感できるだろう。
しかし女性にその痛みを知ってもらうには言葉を尽くすしかない。「このくらい痛い」「尿路結石なみに痛い」といくら言っても女性には他人事であり、どれだけ言葉を並べてもなかなか共感は得られない。
「共感」はあくまで同じ感覚や考え方の人にしか通用しない。
男性にとっても女性の痛みは分からない。月経や出産のような女性特有の辛さは体験できない。夜一人で通りを歩くことすら警戒せざるを得ない女性の気持ちは想像するしかない。
しかし、多くの男性にとって経験できないことを想像するのはたやすいことではない。
もしお互いの性を想像力で理解できたなら、#MeTooはありえない。#MeToo 運動では女性が声を上げたが、呆れたことに男性を童貞などと揶揄していたMeToo参加者がいた。
もちろん性差だけではなく、個人差も問題となる。「個性は大切だ」と言いながら、個性を否定する言動を目にすることは珍しくない。
ようするにみな自分の身体を通してしか世界を見られないのだ。だから息苦しくなろうがなんであろうがPC(ポリティカル・コレクトネス)が必要なのだ。
PCは息苦しくなるし面倒だ。発言もおいそれとはできなくなるから毛嫌いされることが多い。しかしPC必要な理由は、それがなければ歯止めが効かないということの裏返しでもある。
もっともPCも悪いことばかりではない。「この表現はPC的にまずい」となったとき、なぜおかしいのか、どう考えればPCに抵触しないのかを考えるきっかけになるからだ。
そして性差や個人差を否定しない考え方をすれば、動物の扱いに対してもその思考は反映されることになる。感情論ではなく理屈、理性によるしかないということが明らかとなるのだ。
共感そのものを否定しているわけではない。ただ、共感の範囲は極めて限定的(人数ではなく範囲の問題)であり、また、恣意的でもあるということだ。
日本は同調圧力が強まっていると言われるが、同質性を仮定して共感で動くことも一因だろう。
たとえば不倫は夫婦・家族の問題であって赤の他人が口を出すものではないにもかかわらず、不倫報道では非難が集中する。リンチ状態だ。叩く側は「不倫だめ」「不倫された側」に共感しているのだろう。
しかし私は家庭の事情を知らない直接関わりのない家族の問題を叩くことの正当性について、満足いく説明をされたことはないし、共感などしようもない。
たとえば浮気をしたと叩かれている人があなたの親友ならどうか。一方的に責める人は多くはなく、事情を聴いたりするだろう。「浮気するならせめてバレないようにやれ」と言う人もいるだろう。
浮気をされた人があなたの親しい人なら、そっとしておいてあげてと思うかもしれない。浮気をされた配偶者の立場ならどうか。
たとえ「叩かれて当然」「自業自得」と考えたとしても、親しい知り合いであれば、一方的に叩くことに対して心理的な葛藤は生じるだろう。
共感する対象をいったい誰にするのか。その時の気分次第で決めるのなら、ただの自分の好き嫌いで他人を叩いているに過ぎない。
叩く側にもそれなりの「大義」はあるのかもしれないが、異なる考えの人にも意図を伝えるには言葉を介する必要がある。つまり考えていることを言語化して、相手に伝わる言葉を紡ぐ必要がある。
それができないのなら、正当性を主張することは難しい。共感の射程は狭く短い。結果として理解を妨げることもあるのだ。
日本に見合った福祉の議論と理屈を
動物とどう付き合うのか、どこまでの利用ならいいのか。食べるために繁殖させ、屠殺する行為をどうとらえるのか。
動物の利用について功利主義的な立場をとるにしても、やはり日本人には合わないところがある。そして理性ではなく共感で動いてしまう。
だからこそ、100年も前から変わらぬ議論が今も成立しているのだ。
この袋小路から抜けるには、歴史・伝統、つまりは文化を顧みつつ、犬猫や動物の関係について考える道筋を考える必要がある。そして専門家はその道筋を広く示すべきだろう。
とはいえ日本特有の困難もある。欧州と日本では人間観からして異なる。動物観も人間観に根付いているため、日本に合わせるのは容易ではない。
漱石がイギリスで直面した個人のあり方は、中島義道が抉り出しているように現代でも大きく異なる。現在の日本は世間が強化されてしまっているという議論もあり、個が社会と直面する欧米と日本の乖離はいっそう大きくなっているかもしれないのだ。
専門家はアカデミックな世界で議論していれば楽かもしれない。政策ならば実務レベルで終わらせる方が早いだろう。
しかしこれは動物の福祉に限った話ではないし、好ましいことではない。
専門家が面倒に立ち向かっているケースもある。たとえば環境問題では、温暖化懐疑論に対し専門家は積極的に情報を発信している。
対話の窓口を用意して、丁寧に分かりやすく解説をしている。
地球環境研究センターQ and A、国立環境研 対話オフィス – Twitter、江守正多 – Yahoo!ニュース個人
科学だからできることだと思われるかもしれないが、温暖化論は再現性による実証がないので100%正しいのかは分からない。
専門家の合意も形成されており、今のところ破綻もしていないが、実際に先になってみないと確証とはならないところがある。懐疑論よりは整合性がとれていて反証もできるが、確証とまではい。
さらにCO2を地中に埋めることで生じうる地震については触れていないという問題もある。
温暖化の予測は科学的な根拠に基づいてはいても簡単ではないのだが、それでも対話を通じて理解を広める努力をしている。
2020年東京オリンピックに向けて多くの畜産事業者がGAP認証を取得し、動物の福祉は改善されるだろう。
しかしこのままでは動物の扱いに関する議論はなされず、産業レベルでの状況への対応で終わる可能性が高い。
動物の福祉や愛護に携わる人、そしてウマ女だのくっきーけいばだのとプロモーションに励むJRAは、ことばを紡ぐ面倒をひきうけて、きちんと伝える努力をすべきだ。
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