アメリカにおける人道的な家畜の扱いを行う屠畜施設の紹介ビデオです。動物が屠畜・食肉加工場に搬入され、屠畜されるまでの工程が映されています。
動物行動学者にして屠畜のための人道的なシステムを設計している「テンプル・グランディン」博士による解説つきですが、見ているだけでも流れがわかる構成になっています。筆者の解説文には一部動画にはない情報も交えています。著作やインタビューなどで語っていた内容なので、調べたら出てくるはずです。
ここで出てくる屠畜施設はシステマティックに設計されているため、人によっては人間味がない「工業製品の生産」のように感じるかもしれません。「命のやり取り」が感じられない中で殺されていく動物に哀れを感じるかもしれない。
そういう気持ちも感情論としては理解できますが、人間の判断が混じってしまうと「悪い状態」がふつうになってしまう可能性がある。
グランディンによる講習を受けて適切に動物を扱えるようになっても、一年後には不適切な扱いに戻ってしまうケースがしばしばあると語っています。
行程を流れ作業にして人間の感覚に頼る必要がなくなると、適切な扱いを続けやすくなる面もあるようです。
牛の屠畜場
この施設には、牛を落ち着いた状態にするための工夫がほどこされています。牛がストレスを受けて落ち着かなくなるとアドレナリンが分泌されて肉が固くなったり、肉質が悪くなってしまう。素直に動いてくれないと従業員の怪我のリスクも生じます。
落ち着いた状態であれば、牛自身のストレスは少なく肉質も下がらない。従業員にとっても安全で手間もかからない。消費者も美味しいお肉が食べられる。三方よしの「正しい」やり方なわけです。
屠畜場に運び込まれた牛は、数時間囲いに入れられ落ち着くようになっています。囲いでは牛たちがつめ込こまれているように見えますが、ぎゅうぎゅうというわけではなく、密度は75%ほど。人が入って作業もできるし水も飲めるようになっています。
囲いでしばらく過ごした牛たちは、小さなグループに分けて工程に追われていきます。
工場内の牛の誘導路の壁は、牛の視界を遮るために高くなっています。人間にとってはなんら意味を持たない床に投げ出されたホース、柵にかけられた衣類、その他見慣れぬものには注意を向けてしまうので、すべて目に入らないようになっています。グランディンの著作では、極端な明暗の差があると、先がない=崖と錯覚しているのではないか、とも書かれています。
工場の奥に誘導された牛は、動物の暗いところから明るいところに向かう習性を利用して、自発的にコンベアーに乗っかります。コンベアの手前の足元には傾きがあり、いつの間にかコンベアーに乗っかる仕組みになっています。不思議なことに、足がつかなくて勝手に運ばれても暴れないようです。
運ばれた先に待ち構えているのが貫通タイプのキャプティブ・ボルトガン(脳を破壊する)。ここでスタンニング(屠殺)され、足にチェーンが巻かれて吊り下げられ、放血・解体に向かいます。
吊り下げられてからも足がバタバタ動いていますが、これは反射によるもの。スタンニングに失敗して意識があれば、携帯型のキャプティブ・ボルトガンで処理されます。
動画では牛はコンベアーに乗ったままなので、あっさり足にチェーンが巻かれています。床に横たわった状態から巻こうとすると、牛の肢が反射で動いているために危険が伴うそうです。このコンベアーシステムは、従業員の安全性にも配慮されています。
豚の屠畜場
CO2、二酸化炭素によるスタンニング(即死を含め、痛みなく意識感性喪失を引き起こすこと)が用いられています。豚の二酸化炭素スタニングは動物を苦しめるという見解もあるため、疑問視する人がいるかもしれません。
二酸化炭素スタンニングは苦痛が少ない・多いという相反する研究結果があるため、結論は出ていない状態です。
テンプル・グランディンは、瞬時に意識を失わせる電気ショックと比較して、二酸化炭素下で示す豚の不快感はトレードオフなので受容できる。一方で、逃げようとする試みが観察されたら受け入れられないという考えを示しています。Carbon Dioxide Stunning
筆者は90%の二酸化炭素であれば「あっという間」ちゃうか?と思っていたのですが、20秒~30秒はかかるようです。
羊の屠畜場
二頭の羊がトラックから工場に誘導するシーンがあります。この二頭は訓練された羊で、群れをなす性質を利用して自発的に工場にいざなう役目を負っています。
リーダーシープでもって何も知らない羊を誘導する。無辜の羊に仲間を売らせているのを目にしていることになる。考えてみるとエグい。
これらの動画でエグいと思う人はヴィーガンを目指すべし
吊るされてピクピクしている牛をみて、生きたまま逆さ吊りにするなんて酷い!と怒る人がいるのですが…そう感じる人は肉を食べることをやめたほうがよろしいかと思います。牛乳を飲んだり、乳製品を食べている人も同じですね。
動物を絞める習慣がなければ、屠殺を目にしてエグいと感じるのは自然な感情です。その感情に向き合って食べることも一つの考え方。肉食をやめるのも一つの考え方です。
筆者はヴィーガンにはなりません。なれません。
肉を食べる量は相当減らしていますが、牛乳と卵は外せないのです。コーヒーも紅茶も牛乳でないとまずいから。豆乳もアーモンドミルクも試してみたけど合わないのです。
必ずしも開き直っているわけではありません。牛乳売り場に行くと、希にではあっても「すまんなあ」と思ったりはします。
牛乳は生きていく上で必須というわけではない。コーヒーや紅茶ならストレートで飲むこともある。牛乳を入れるのは「美味しい」からであって、味覚を楽しむためだけの行為です。
楽しみのために殺しているわけで、心がちくっとすることはある。ヴィーガンにならないのであれば、そんな感情に付き合っていくしかないのでしょう。
どう折り合いをつけるか
ヴィーガンにならないのなら、どうにか感情に折り合いをつける必要があります。
それぞれ考えるべきことですが、動画の解説をしていたグランディンの著作『動物感覚』に書かれていることが一つのヒントにはなる。
こんなに動物好きなのに、どうして精肉業界で仕事ができるのか、いつも不思議がられる。これについて、自分なりにいろいろと考えてみた。
中央トラック制御システムを開発したあとで、養牛場を見わたし、何千何百という牛が囲いの中でゆったり過ごしているのを目にしたときのことを思い出す。ほんとうに高性能の食肉処理システムを設計したと思うと、気が滅入った。牛は私のいちばん好きな動物だ。
牛を見ていて、気がついた。人間が牛をこういう存在に品種改良してこなかったら、ここにいる牛は一頭たりとも、この世に生まれていなかっただろう。それ以来、牛をこの世に送り出したのは私たちで、だから牛に対して責任があるのだと考えてきた。私たちは牛にまともな生活をさせて、まともな死を迎えさせてやる義務があり、牛の生活はできるかぎりストレスの低いものでなければならない。それが私に与えられた仕事だ。
こうやってこの本を書いているのは、動物がストレスの少ない生活をして、痛みのないすみやかな死を迎えるだけでなく、それ以上のものを得ることができればと願うからだ。動物にも、なにかやりがいのあることをして楽しい生涯をおくってもらいたい。私たちにはその責任があるのだ。
もっともグランディンは「肉を食わないと調子が悪い」ということも書いています。遺伝的に動物の肉が必要な人もいるのではないか、と。
肉はセロトニンを誘導するトリプトファンを含んでいるので、幸せを感じたり、落ち着いたりしやすくなる。
おそらくセロトニンの感受性という体質によっても、肉の必要性は異なるのでしょう。食べて幸せになるのならそれはそれで良いことです。
ただし、特定の種は食べていい。食べられるために生まれてきた牛なら殺されてもかまわない。しかし特定の種はだめという考えであれば、エゴイスティックな自分に向き合う必要はあります。