競馬はスポーツかギャンブルか→ギャンブルに決まってる 「遊び」という営みから考える

競馬はスポーツなのか、それともギャンブルかという議論をたまに耳にします。

これ、議論の余地なくどちらもYESです。

賭けをせずにレースを観るのが好きな人ならスポーツとして観ているし、賭け要素がなくなったら競馬を観ない人にとってはギャンブルになる。楽しみ方の違いによってスポーツかギャンブルかの比率が変わるだけです。

スポーツかギャンブルかが議題に上る理由は、ギャンブルのイメージの悪さが一因なのでしょう。

「競馬?ギャンブルやるんだ?」と言われてスポーツ要素を強調したくなることもあります。イメージをよくしたいという心理もあるのかもしれません。

「競馬?スポーツでしょ?」という方が、SNSの競馬ファンからは受けます。

しかし競馬は賭け金で開催費用を賄っている純然たるギャンブルであり、賭ける人が減って売り上げが下がれば開催できなくなるのも事実。

2000年に入ってから地方競馬が相次いで廃止されたこと。ネット投票で息を吹き返したことを思い起こせば、競馬のギャンブル要素を軽んじることはできないでしょう。

ギャンブルとスポーツを分かつもの

ギャンブルとして施行されている公営競技は、その名の通り「競技」でありスポーツです。

そして賭けを前提とした枠組みで行われている「ギャンブル」でもあります。

もちろん公営競技で行われている競技も、賭けを一切排除すればスポーツとして成立します。

たとえば競輪は”KEIRIN”としてオリンピックの自転車トラック種目に含まれています。

これを見て誰もギャンブルなどとは思わない。

競馬も賭けが禁じられているアラブ首長国連邦(ドバイ)のように、賭けによる収益に頼らなければスポーツとして開催されていると言えるでしょう。

海外のブックメーカーはテニスであろうが王族の結婚だろうが賭けの対象にしますが、主催者とは無関係に行っていること。主催者や当事者はその賭けになんの関係もありません。(スポーツ賭博の八百長は別問題)。

従ってギャンブルとスポーツを分かつのは、主催者が賭けを前提としているかどうかです。

開催が賭けを前提にしている場合、賭ける側の不満が生じないような配慮がなされることがあります。

例えばギャンブル競技では、レースを「捨てる」ことは許されず、全力を出すことが義務となります。スポーツであれば本人の意思決に委ねられることでも、お金を賭ける人がいるギャンブルではそうはいかないことがあります。

 

ギャンブルは遊びの一類型

遊ぶ子ども

元陸上選手の武井壮さんが「スポーツは遊び」とTwitterで発言して物議をかもしたことがあります。

スポーツを職業にしてる人に失礼と言われたから言うけどな。。スポーツはどこまで行っても遊びだし、ゲームだわ。。1番楽しい遊びを職業にさせて頂いてる感謝の気持ちがないアスリートはアスリートじゃねえ。。観て下さる方々ひとりひとりのお陰で仕事として成立している事を理解して初めてプロだ。

武井壮の「スポーツは遊び」発言に対する反応|Togetter

「遊びを仕事にして食っていけるのだから感謝すべき」というもっともな発言。しかし口調の粗さと「遊び」という語への反発から批判が噴出しました。

武井さんの口調はさておき、「遊び」ってなんだろう、という部分が理解されていなかったことが印象に残った出来事でした。

遊びは文化の元

「遊びとは何か」。Wikipediaの『遊び 』から引用します。

『ホモ・ルーデンス』はオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの著作で、遊ぶヒトの意。遊びこそが人間とその他の動物を分かつものとする考え方です。ロジェ・カイヨワはフランスの思想家。

「遊び」の特質
フランスのロジェ・カイヨワはホイジンガ『ホモ・ルーデンス』から大きな影響を受け、『遊びと人間』を執筆した。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争・運・模擬・眩暈を提示している。また、カイヨワによれば、「遊び」とは以下のような諸特徴を有する行為である。

  1. 自由意思にもとづいておこなわれる。
  2. 他の行為から空間的にも時間的にも隔離されている。
  3. 結果がどうなるか未確定である。
  4. 非生産的である。
  5. ルールが存在する。
  6. 生活上どうしてもそれがなければならないとは考えられていない。

人はなぜ、どうしてもしなければならないわけでもない「非生産的なこと」をわざわざやるのかということに対する答えとしては、自身の有する技術的・知的・身体的・精神的能力を最大限に無駄遣いしたいためであるという説明がなされる。そしてカイヨワは、これは人間が慢性的にエネルギー過剰の状態にあって、生存するのに必要不可欠な量を超えた過剰なエネルギーを発散する必要があるためであるとし、こうしたエネルギーの無駄遣いから遊びが生まれ、さらにそこから人間の文化が生まれてきたのだと唱えた。

動物同士が戯れることもあるし、遊びを教えこんだら一緒に遊ぶこともできる。ボールを持ってきて「投げろ」とおねだりするケースもある。だから動物も「遊び」をすると考えることはできます。しかし、上の条件は満たしません。

遊びは非生産的であり不必要な活動にもかかわらず、人間は昔から「遊ん」できました。政治、法律、宗教、学問、スポーツなど、人間の文化はすべて「遊びの精神」から生まれたとするのがここでの考え方です。

人間たらしめる営みと理解すれば、武井さんの口にした「遊び」も、スポーツを軽んじているわけではないのは明らかです。

「遊び」の種類

さて、遊びはどのように分類できるのか。これもWikipediaから引用です。

「遊び」の類型

  • カイヨワは『遊びと人間』のなかで、遊びを次の4つの要素に分類している。
  • アゴン(競争) :運動や格闘技、子供のかけっこ、ほか。
  • アレア(偶然) :くじ(宝くじなど)、じゃんけん、サイコロ遊び、賭博(ルーレット・競馬など)、ほか。
  • ミミクリ(模倣) :演劇、絵画、カラオケ、物真似、積み木、ごっこ遊び(ままごとなど)、ほか。
  • イリンクス(めまい) :メリーゴーランド、ジェットコースター、ブランコ、スキー、ほか。

ほとんどのスポーツ、囲碁・将棋・チェスなどの勝負事、クイズなどの知的ゲームはアゴンに属し、ホイジンガは、学問や政治はアゴンの進化したものととらえる。この4類型を複合させることも可能であり、たとえば、麻雀やトランプはアゴンとアレアがミックスされたものであるといえる。

(中略)

一面において、「遊び」は人生に不可欠の資質がベースとなっている。アゴンは闘争本能、アレアは決断力や胆力、ミミクリは模倣本能、イリンクスは不快感にたえる忍耐力を必要とする。したがって、「遊び」はこうした人生に不可欠な資質を無駄遣いしながら、それを鍛錬する場ともなっている。

偶然性に基づいた「遊び」。これにお金がかかるとギャンブルになります。

スマホゲームのガチャもギャンブルになります。海外ではルートボックス問題として、ギャンブル規制当局を巻き込んでの論争となりました。

今は業界側が自主規制の枠組みを導入することで規制を回避したところです。

ゲームがギャンブルと見なさうれるように、パチンコは遊戯と表現されうるのです。

 

ギャンブルはなぜイメージが悪いのか

カードゲーム ギャンブル

日本では賭博行為は刑法により禁じられています。

賭博である公営競技や宝くじが認められているのは、法律で例外規定を設けているためです。

競馬場はかつては鉄火場であり、JRAにも地方競馬にも八百長疑惑や騒擾が多々ありイメージもよろしくなかった。

東京都は美濃部知事時代の1969年にギャンブル一掃を宣言。東京都の所管していた大井オートレース場と後楽園競輪場は閉鎖されています(大井競馬場は73年より23区で開催)。ギャンブル廃止による税収減などで美濃部批判はあれど、とにかくギャンブルの印象は悪かったようです。

皮肉なことに、東京都がギャンブルから手を引いた直後にハイセイコーによる競馬のブームが起こり(第一次競馬ブーム)イメージが向上しています。その後、中央ではテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスのTTGトリオが大活躍して人気を博しました。

公営競技のイメージが向上したのは競馬ブームの到来と八百長ができない環境を整備する地道な努力。そしてなにより1980年代から行われたイメージ戦略の賜物でもあります。

中央競馬会は略称をNCKからJRAに変え、場外馬券売場をWINSと改称。イメージCMも作成しています。

こういった一連のイメージ戦略で鉄火場色を払拭したほか、競馬の魅力を女性にも積極的に発信していました。

そういった下地ができたところでオグリキャップや武豊が登場。1980年代末には競馬のイメージは大幅にしています。それと同時に売上もうなぎのぼり。

今では競馬は一般的な娯楽になっています。

とはいえ、いまなおギャンブルにネガティブなイメージを持つ人はいます(競馬に関してはギャンブル依存やお金の価値観がおかしくなることの他、動物を「使い捨て」にする面もある)。

宝くじもギャンブル

競馬に限らず、ギャンブル一般をよく思わない人はいます。なのに宝くじ売り場は街中にあります。

じつは宝くじもギャンブルです。

お金のかかる”くじ”の一般名称は「富くじ」で、富くじの発行は刑法の187条で禁じられています。くじの発売はおろか、取次・授受にも刑事罰が科されます。(賭博及び富くじに関する罪)。

富くじの一種である宝くじも本来は賭博として禁じられていますが、「当せん金付証票法」により例外的に合法化されています。

宝くじは自分で番号を選ばないからギャンブルではないと思っている人もいますが、競馬にも自分で番号を選ばない賭け方があります。逆に宝くじにも番号を自分で選ぶものもある。

ギャンブルの定義は「金銭や品物などを賭けて勝負を争う遊戯」となっており、選択の有無による違いはありません。

ギャンブルは身近な楽しみなのです。

金品を賭さなければギャンブルにはならない

娯楽の少ない時代、賭博は人気がありました。江戸時代には富くじも大流行。人気が加熱してしまうため、たびたび禁止令が出されています。

賭博禁止令が出された賭博には、現代のすごろく(絵双六)の原型となった「盤双六」があります。

盤双六はバックギャモンの原型となったゲームで、7世紀には日本で遊ばれていたようです。

バックギャモンは相手の陣に駒を進めて上がりを競うゲーム。サイコロの目を元に進めるため不確定要素が大きく、よほどの初心者でなければ上手い人とやっても数回に1回は勝てます。

この盤双六は1300年以上前に賭博として流行したため、天皇により禁止令が出されてもいます。

『日本書紀』によれば、689年12月に持統天皇によって初めての禁止令が出されている。

すごろく|Wikipedia

しかし現代では普通にゲームとして遊ばれていて、ギャンブルとは思われていません(一般的には)。

ポーカーもカジノでは賭けの対象となりますが、同時にエンターテイメントとしてテレビ番組も作成されています。麻雀もそうですね。

当たり前と言えば当たり前ですが、賭けがなければギャンブルにはならないのです。

 

競馬はドラマがあるからギャンブルとしては特別?

競馬

競馬は馬という動物が介在している点で、他の公営競技とは異なります。

馬が生まれる前からレースに出るまでには、生産育成トレーニングセンターと、多くの人の手がかけられています。一頭の馬に関わる人の数だけ思いがある。

数多くの書籍や雑誌が発行され、ウェブメディアで取り上げられるのも、馬に思いをかける多くの人がいる故です。

しかし動物を走らせる特別さは引退競走馬の問題に直結しており、引退馬の処遇がネガティブな印象を持たれる一因にもなっています。

「競馬は特別」という言葉は引退馬問題を惹起してしまう。これにどう折り合いをつけるのかが問われています。

さて、「特別」でない他の公営競技にドラマがないかといえばそんなことはなく、選手のインタビューを読めば「なるほど」と思うこともしばしば。

読み物として普通に面白い。

人間がいて優勝劣敗の世界があれば、そこにドラマはある。


好きなものを特別視することはよくあります。特別であってほしい、いいものであってほしいと思うのは自然なこと。

そして自分にとって好ましくない要素要素を低く見がちです。もちろん自分の楽しみ方として、負の部分を見ないようにするという選択はあり。

しかし文化として考えるのであれば、自分にとって都合の悪い部分も含めて捉える必要があります。都合の悪いところは見ないふり。これって引退競走馬の問題も同じでしょう。

ギャンブルとして好きな人もスポーツとして好きな人もみんな競馬ファン。ギャンブルもスポーツも遊びという観点に立てば、優劣はありません。

競馬がスポーツかギャンブルかを問うより、「楽しみかたはそれぞれで正解はない」という方が自然で、受容されやすいのではないでしょうか。