引退馬の支援を行う日本サラブレッドコミュニティクラブ(TCC JAPAN)の設立する「TCC PARK RITTO」を紹介する朝日新聞の記事に、これまで気になっていたことがいくつか散りばめられていました。
特徴の一つは、全国初の引退馬の緊急避難所「ホースシェルター」。近くには日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニング・センターがある。急なけがなどで引退を余儀なくされ、行き先を失って「廃用」になる競走馬を救う施設になる予定だ。
競走馬を管理する厩舎(きゅうしゃ)の馬房は限られるため、引退する競走馬は、数日後には厩舎から出されてしまうことが多い。農林水産省によると、2017年のサラブレッドの生産頭数は約7千頭。昨年、中央・地方競馬合わせて約5800頭が引退した。約1千頭は繁殖用、約2400頭が乗用に転用されたが、その他の行方は追い切れないという。
気になったのは記事の内容というより「約2400頭が乗用に転用されたが、その他の行方は追い切れないという。」の部分。
2,400頭は引退事由が乗馬用となっている馬の頭数。問題は2,400頭の馬を受け入れるだけのキャパシティが日本にあるのかということと、2,400頭全てが本当に乗用馬になったとすれば、その分あぶれた馬が生じることになる。現段階では2,400頭という数字の実態すら追うことができない、という方が妥当ではないでしょうか。
そして最大の問題は「行方を追えない馬の馬」の行き先を本当に知りたいのか?ということです。
本当に全ての引退競走馬の行方を追いたい?
2015年の馬の屠殺頭数は国内産だけで5,000頭以上。当然ながら、サラブレッドも多数含まれています。
すべての馬の行き先を追ったとしたら、繁殖や乗馬クラブを経由した馬も含め、大半が屠殺となることでしょう。
それを踏まえて
本当に屠殺されるまでの競走馬の行方を知りたい
人がどれだけいるのかが疑問なのです。
引退馬の具体的な追跡がなされれば、その馬のたどる経路が詳らかになります。どの程度の乗用馬のキャパシティがあるのか明らかになり馬の利用実態も分かるようになります。馬の福祉を考えるための情報としても参考になるでしょう。
たとえば日本にはどの程度の馬のキャパシティがあり、何頭までなら生かし続けられるのかの目安も分かります。
しかし屠殺場に送る側の立場からすれば、肥育の馬は「かわいそうだ」と非難されるようなら追跡などされたくないし、協力もしたくないでしょう。
馬に直接関わっている人だけが知っている分には問題が生じなくても、一般に知られれば非難されかねない。肉にされるのも「家畜のありかた」として非難対象でなくならない限り追跡など行えないでしょう。
サラブレッドコミュニティTCCのように、いちど関わった馬は戻ってくることを前提として行方を追う体制ならうまくいくとは思います。ただしこの方式では、馬のオーナーがその生を最期まで責任を持つ必要がなくなるという片務的な構図になります。
「競走馬生産や育成で食ってる人がいるのに、生産頭数を減らせばいいとするのは短絡的だ」という考え方もありますが、これは2つの点で説得力がない。
「売上が減れば生産で食ってる人が困る」というなら、ばんえい競馬にもっと金を使おうぜ!となっていいはず。
生産農家や育成のことを考えながら馬券を買っている人は、いたとしてもごく少数。ほとんどの人は楽しいから買っています。
そもそも産業に携わる人のことまで考える必要はありません。つまらなくなれば離れる。楽しければ増える。
経営が苦しい会社があったからといって、従業員のことを考えて製品買ったりはしませんよね。「売れるものを作れ」というだけです。
生産頭数を減らさず生活の糧を守りたいなら「引退馬の受け皿作れ」でいいわけです。もちろん競馬での利用を否定するファンによる寄付でもいいけれど、生産者云々は別の話でしかない。
もう一点の馬の福祉にかかるコストについては後述します。
行き場がないのか?
引退馬の行方を追えるようになれば馬がどのような一生を送るかが明らかになります。そこで浮かび上がるのが肉に用いられる馬は「行き先がないのか」ということ。
「処分」される馬はお金が介在して買い取られ、肥育されて処理場へ送られます。
「乗馬としての行き先」はない
しかし家畜としての行き先はある
家畜として活用されることを「行き先がない」と表現するのは、肉としての利用を否定することになります。屠畜を否定するのであれば、(牛鳥豚を問わず)肉を食べる・肉として利用する行為を見直す必要が生じます。
ここを読んでいて同意する人は少ないことは承知していますが、家畜の利用という観点からは避けて通れない事柄です。人間の都合で食っていいものと食っていけないものを分けている正当性はどこにあるのか。歴史・伝統で考えるのは一つの立場ですが、それならどこからを伝統として考えるかという問題が浮上します。
動物の福祉向上は人間の負担が増える
動物の福祉を向上させると人間の都合が制限されることになります(表現がまどろっこしければ、「人間は疎外される」と読みかえてください)。そして費用や手間、条件といったコストが増大します。
欧米では動物の福祉の向上は人間にとってもメリットがあると考える人が多いようですが、そのためのコストが増えることになります。畜産製品の値段は上がり、犬猫を飼うための条件は厳しくなります。
身近な例としては、一定の年齢以上の夫婦のみの世帯では犬猫の里親になれないことがあります。動物の生活環境を考えれば、死ぬまで面倒をみられない人に里親を任せるわけにはいかない。いくら当人が引き取りたくても、育成条件がよくなければ引き取ることはできません。
飼育環境については、たとえばドイツでは下のような制約があります。守らなければ飼えなくなります。
- 犬を一人ぼっちにして、長時間留守番させてはいけない。
- 外の気温が、21℃を超える場合は、車内に犬を置き去りにしてはいけない。
- 1日最低2回、計3時間以上、屋外 (運動や社会性を身につける)やドックラン (主に社交性を身につけるため)へ連れていかなければいけない。
馬について考えるなら、たとえば夫婦で小さな乗馬クラブや養老牧場を始めるのも難しくなるでしょう。どちらかが病気になったり事故に遭えば、馬の世話がおざなりになってしまう。これを避けるにはボランティアであれバイトであれ社員であれ、継続して馬の面倒をみられる体制が必要になります。
これも馬の飼育における一種の持続性と考えていいでしょう。そこでは人間の善意は必ずしも通用しません。「人間がどうしたいか」ではなく、動物にとってよりよい環境が優先されるようになります。
JRAは馬の福祉に積極的ですが、国際セリ名簿基準委員会のパートI国としてやらなければならない。つまり感情的にかわいそうだからというわけではなく、「義務」だから、福祉を向上させなければならないのです。
動物の福祉は東京オリンピックにも影響を及ぼす
「オリンピックアジェンダ2020」には食品安全、環境保全、
持続可能性とは環境資源や人的資源、生産サイクルにおいて、環境に影響を与えることなく持続性を担保した枠組みのこと。そしてオリンピック村の畜産物調達基準として、動物飼育環境の持続性も条件となっています。
平たく言うなら、オリンピック村で利用される食材には一定の品質基準が求められており、動物の福祉も含めた持続性可能性も一項目になっているということです。
持続可能性の基準を満たした条件で生産したことを証明するのがGAPという認証制度。オリンピック開催にあわせて日本でもJGAPというものが制定されています。
世界にはいくつかの「GAP」が存在しているが、東京オリンピック・パラリンピックで食材を提供するためには、日本発の世界水準GAP認証制度「JGAP」の取得が必要となる。
しかし現状、この「JGAP」は取得率が低いことから、せっかくの国内開催にも関わらず、選手村で提供する食材のほとんどが外国産になるのでは? という懸念が広がっている。
しかしJGAPは動物の福祉(アニマルウェルフェア)のレベルが低すぎる!と、オリンピックメダリストを含むアスリートが声明を表明しています。
東京五輪で使用される畜産物のアニマルウェルフェア(動物福祉)のレベルが低すぎるとして、ロンドンオリンピック銀メダリストのドッチィ・バウシュ選手ら9名のオリンピックアスリートが改善を求める声明を発表した。
選手村や会場の食事に使われる畜産物は、これまでの大会では持続可能性への取り組みの一環として動物福祉が強く意識され、ロンドン大会ではケージフリー(平飼いか放牧の卵)が使われた。
しかし東京大会では、世界中が廃止していっているバタリーケージ飼育の卵や、豚を拘束する妊娠ストール飼育の農場の豚肉でもよいとしている。畜産物の調達基準には動物福祉が含まれるが、そのレベルは世界水準に到底達しない。
欧米からは日本は「義務」を理解していないように見えるのです。
そんなことを念頭に置いて、なぜオリンピックで動物の福祉(アニマルウェルフェア)が求められているのかについて考えてみてはどうでしょう。
「どうせ動物を食べるのに偽善的」だとか「食べること自体がかわいそう」といった自分がどう思うかは一旦横において、なぜそのような声明を表明するのか、海外はどうなっているのか。何を根拠に日本は動物の福祉のレベルが低いと言っているのか。
発言の背景にあるものはなにかを意識しながら調べれば、理由もわかってくるかもしれませんよ。
結局何が言いたかったかというと、競走馬の行方を追跡できることは必ずしも歓迎されないこと、動物の福祉はいい悪いの次元ではなく「実現されるべきこと」であること。そして個々人の善意は否定され、不本意なことが生じうるということです。
もし競走馬の行方を本気で追いたいのであれば、かわいそうといった感情論は邪魔になる可能性があります。
動物福祉は動物にとって苦痛が少ないことを客観的事実(科学的と言ってもいい)に則って実現していくもので、感情論に基づく情緒的な要素は排されることもあるということです。
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