イギリスでの4年間のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎での生活や思いでから始まり、1977年に帰国してからの日本での馬の扱いの落差へのとまどい。1987年に調教師として開業してからの試行錯誤。馬を大切に扱う理由とその方法論までが書かれています。
「馬を大切に扱う」「馬の成長度に合わせる」といった現在の藤沢につながる思考がよく分かります。
『競走馬私論』のハードカバー版『競走馬私論~馬はいつ走る気になるか』が出版されたのは1999年5月。20年近く前に書かれた本なので、仮説の検証結果によってやり方を変えたり、藤沢自身の考え方が変わっているかもしれません。
イギリス修行~開業
藤沢のイギリスでの修行は牧場と調教師の元で一年ずつの予定だった。
しかしイギリスで最初に受け入れてくれたギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎を離れることなく、4年間を過ごすことになる。
二年の予定を大幅にこえ、そろそろという頃、「イギリスで調教師になる気はあるか」ゴードンに問われ、身の振り方を考えることになる。
なんのつてもないイギリスでの調教師開業の困難さを鑑みて、日本での仕事の口があるから帰ってこいという親の声もあり、1997年11月、藤沢は4年間過ごしたイギリスを後にした。
日本に帰国した藤沢は、中山競馬場の菊池一雄厩舎で調教助手として働き始めた。
当時はトレーニングセンターがなかったため、美浦ではなく中山競馬場で調教が行われていた。
その当時の中山競馬場の光景をこう記している。
私にはフィジカルな問題以前に、馬の精神面でのケアがまったく考えられていないように思えた。わかりやすい例を挙げれば、厩舎村のいたるところで、馬を大声で叱ったり、ハミのついた引き手を手荒に引くといった光景が日常的に見られた。馬房から引き出そうとしても出ない、指示とは違う方向に行こうとする、馬具の装着を嫌がって暴れる、そういったとき、少なからぬ厩務員が怒ったような声で馬を威嚇し、人間の命令に従わせようとしていた。
今から40年前のことだ。
四年後の1981年に初開催されたジャパンカップで日本馬が全く歯が立たなかったのも、こういった馬の扱いが原因かもしれない。と、結論付けたくなるが、それは分からない。
因果関係は分からないけれど、昔に比べて日本の馬が強くなっているのは確かではある。
日本での馬の扱いに思うところがあった藤沢は1987年に厩舎を開くと、日頃のにこやかさとは裏腹に、スタッフに「思ったとおりにやる」と独裁宣言をする。
独裁宣言
ところが、私はすべてを自分の思ったようにやるつもりでいた。そのために調教師になったのだから、そうしなければ意味がない。厩舎スタッフを集めた最初のミーティングのとき、私はまずそのことを宣言した。
「私が調教師になったのは、自分の好きなようにやってみたいという気持ちが強かったからだ。馬がどういうものか、まだわからないけれど、調教師として好きなようにやりたい。イギリスに行って勉強したからとか、平野厩舎にいたからとか、そういう理由で言うことを聞けというのではない。
皆、それぞれが長年やってきた方法があるのはわかっている。それから、これはこうしたほうがいいんじゃないか、あれはこうしたほうがいいはずだ、という意見もあるだろう。そういう話を一切聞かないわけではない。耳は傾ける。けれど、ほとんどの場合、私はそうしないと思う。あなたたちがどうしても自分の思いどおりにやりたいのなら、自分で調教師になるか、自由にやらせてくれる厩舎を探してくれ。私は調教師としてやってみたいことがたくさんあるから、この仕事を選んだ。だからそこを理解して、皆に協力してもらいたい」
馬主さんから馬を預かるのは調教師であって厩務員ではない。馬に何かあれば、その責任はすべて調教師にある。馬が壊れた場合にも走らない場合にも、私自身が馬主さんに謝らなくてはならない。そのとき、もし自分の考えとは違ったやり方をしてそうなったとしたら悔いが残るだけで、こんなに嫌なことはない。
「馬を預かってくるのは私で、すべての責任は私にある。『厩務員がミスしたから馬が壊れた』とは絶対に言わないし『厩務員が下手だから走らない』とも絶対に言わない。あなたたちには何の責任も負わせないから、五年間は私の言うとおりにやってもらう」
五年後に同じようなミーティングを開く。それまでに結果が出ていなかったら、皆の意見を聞く。そう言って話を締めくくった。
独裁者三年目の91年には最高勝率調教師賞、優秀調教師賞を獲得するなど多大な活躍をし、それ以降は毎年結果を積み上げていく。
開業時の宣言どおりに開いた五年後のミーティングでは、異論は出なかったという。
馬を大切にする、やさしく接する
87年に美浦で調教師として開業した藤沢は、レースでの使い方や育て方に失敗したことへの悔いを「馬へのごめんね」と胸に刻みつつ、馬を大切にする方法を模索する。
一万分の一ずつ改善していく
どうすれば馬を壊さずにすむか。
私たちが抱えているこの難問に対して完璧な答えはない。あるいは、ほとんど無限に近い答えが存在する。馬を管理する環境、馬にとらせる行動、すべてにおいて故障する確率を一万分の一でも十万分の一でもいいから減らしていくしかないからだ。一万分の一を一〇〇重ねれば一パーセントである。故障の確率を一パーセント減らせることになる。
一万分の一しか変わらないのなら、ほとんど同じではないかとは考えない。どんなにわずかであっても故障の確率が下がると思われることは断じて行動に移す。それが私たちのやり方である。
たとえばレースに勝ったあと、馬主さんと関係者が一緒に記念撮影をする。これを口取り写真と言うが、このとき私は馬に機首を載せない。騎乗してもカメラの前に立つだけだから、それほどの負担にはならないだろうが、乗らなければならない理由はどこにもない。馬は全力を挙げて走ったばかりである。何かの拍子にカクッと力が抜けて、体のどこかを痛めないとも限らない。その確率が一〇〇万分の一であっても乗らないほうがいいと私は考える。
日本の競馬関係者は、外国に比べて馬一頭一頭にかける人間の愛情と時間が少なすぎると藤沢は考えていた。
馬のコミュニケーションをどう考えるか。馬が人間をどう思っているか。
多くの人びとは、こういった基本的な問いを立てることなく、競馬や競走馬を扱うことを簡単に考えていたという。
馬の扱いを簡単に考えない藤沢は、馬には優しく接することを厩務員に徹底する。
「馬には優しく接しろ」
何よりも先に厩務員たちに言ったのは「馬には怒るな、優しく接しろ」ということだった。血統のよい馬を生産し、それにトレーニングを施して競馬をさせるというのは人間の考えだしたことである。馬は本来そんなことをしたいとは思っていない。本当は緑豊かな草原で草を食べていたいのに、人間の都合で競馬に付き合わされている。馬はトレセンも競馬場も本当は好きではないのである。
好きではないところに連れて来られて、かなりハードなトレーニングを課せられている。そのうえ怒鳴られたり、乱暴に扱われたりしたのでは人間でも不機嫌になる。子どもと同じで、教えるべきことは教えなくてならないが、その過程でストレスを溜めさせてはならない。
子どもの多くは勉強が嫌いで遊んでいる方が好きである。それを上手にリードして学習の楽しさを教えてやると放っておいても勉強するようになる。そういう配慮をせず、受験の年齢になったからといって、突然、試験勉強を強いれば、胃潰瘍になったり、円形脱毛症になったりする。エネルギーが溢れている子は不良になって暴れるかもしれない。
トレセンに入厩してくる馬の大多数は人間を恐れてはいないし、敵視もしていない。生産牧場の人たちは生まれた直後から仔馬の体をさすってやり、さまざまな手当て、世話をして育て上げている。それが自分たちの生活を支えることだから、技術的な巧拙はあっても、基本的に仔馬を粗末に扱うことはない。仔馬は母馬と人間の両方によって育てられてきたのだから、人間を嫌ったり、敵視はしない。
(2000年に入ってからは馬術経験者が育成に入ることが増えたこともあり、競走馬のへの接し方や考え方が大きく変わったらしい)
「Happy People Make Happy Horse」ゴードン厩舎時代に言われたこの言葉を実現するために、馬を大切にする様々な方法論を試みる。
まず、厩舎全体を清潔に保つことである。これは馬と人の健康管理上、当然である。私の厩舎を何度か訪れた人は馬房前の砂地にいつも箒の目が立てられていることに気付くはずである。
馬は馬房から引き出されて厩舎の外へ出るときは必ずここを通る。石やゴミが落ちていてはならないのは言うまでもないが、砂だから、馬の足跡も人の足跡も付く。これをすぐに消しておくのは所属の新人騎手や厩務員の仕事である。
彼らに「足跡も落としておくな」と私は言ってきた。馬房前の砂地に人馬の足跡がたくさん付いていれば、何か異物が落ちていたときに目に付きにくい。常に箒の目を立てるのは何も落ちていないことの点検であり、何かが落ちたとき、すぐに分かる状態を保つためである。
「普通」ってなんだ
角居勝彦調教師が技術調教師(調教師免許を取ってから、厩舎を開くまでの期間)時代に藤沢厩舎にいた時の印象深いエピソードがある。
角居が藤沢の調教が普通より強ことを何気なく問うたところ、「角居君、”普通”って何だ?」と返ってきた。そのことが「普通」について考えるきっかけになったと述懐している(
『挑戦!競馬革命』角居勝彦著)。
調教も馴致も馬の個性に合わせて根気よく行っているわけで、それぞれに違う。もっとも馬の場合はここまでは必要というラインに到達しなければ競走馬や競技馬になれない現実もあるのだが…
「普通」の難しさは人間にも当てはまる。
人間は自分の意志で行動できる、変われる点で違うと考える人が多い。学校制度からして「普通」を前提とした進級制度が敷かれており、基本的に全員が進級する。
しかし現在では遺伝子レベルでの違いが、個人の行動や考え方に大きく影響していることが分かっている。
新しいものを好む遺伝子、浮気をしやすい遺伝子、酒に強い遺伝子など、肉体のレベルで人それぞれ異なっているのだ。
科学的にも「個性」であるはずのことも、かつては「普通」から外れたと考えられてきた。
「普通」は同質性を仮定することで成立する。
欧米については「思っていることを言う」「言わないと分からない」とよく言われるが、「普通」を仮定するための「世間」がなく、全てが個人と個人の関係であるために「普通」が想定しにくいという事情による。
人それぞれ違う社会では、自分の意思は言葉で伝えなければ相手に通じないし、相手のことも確認しないとすれ違いの元になる。
欧米と言っても国と文化圏、そして時代によって大きく違うので、ひとくくりにするのは乱暴ではある。が、構造としてはそういうことだ。
北欧の国では学校制度で習熟度によって進級を見あわせるのも、それぞれに違うという思想が根底にある。
生まれ月による差は、かつて思われていた以上に大きいことが分かっている。
北欧での進級を見あわせる率は小学校低学年ほど多く、成長するにしたがって下がることからも、早い段階での調整は合理的なことがうかがえる。
藤沢が「普通」を普通として考えないのはイギリスでの4年間の経験ゆえか、あるいはもともとの考え方なのか。
いずれにせよ藤沢は当たり前を当たり前と考てはいないのだろう。
藤沢和雄のプロフィール(Wikipediaからコピペ)
藤沢和雄
藤沢 和雄(ふじさわ かずお、1951年9月22日 – )は、中央競馬(JRA)・美浦トレーニングセンター所属の調教師。 1995年から2009年までの間、11度のJRA賞最多勝利調教師賞を獲得した。
大学にて教職課程を修得するが、教師への適性にみずから疑問を抱き、父の友人である小牧場「青藍牧場」の主、田中良熊のもとで馬産の手伝いをするようになる。しかし、そのころはホースマンになろうという確固たる信念はなく、彼にとって競馬界は自身の将来を定めるまでの短い「腰掛け」に過ぎなかった。
しかし、青藍牧場で働く中、徐々に田中の影響を受け、藤沢はホースマンへの志を固めていく。そして田中の強い勧めでイギリスへ渡り、名門厩舎のギャビン・プリチャード・ゴードン厩舎のもとで厩務員として4年間働き、そこで競馬に対する哲学、馬への接し方などの競馬理論を形成していくことになる[7]。ちなみに彼を競馬界へと導いた田中は、和雄がイギリスへ渡った翌年、急死している。
1977年11月に帰国した藤沢は、美浦・菊池一雄厩舎の調教助手として二冠馬カツトップエース(皐月賞、東京優駿(日本ダービー))の調教に携わるなど、闘病中の菊池に代わり、番頭として同厩舎を切り盛りする。菊池が病死し(厩舎清算のため、菊池の死後1年間、佐藤勝美が名目上の後継調教師となっている)、厩舎が解散したあとは野平祐二に誘われ、野平厩舎へ。そこで名馬シンボリルドルフとのちの厩舎の主戦騎手岡部幸雄とめぐり合うことになる[13]。
1987年、独立して厩舎を開業。初勝利は、1988年4月24日の新潟競馬11レースで、若い管理馬たちのリーダーとなるよう地方競馬からスカウトした老馬ガルダンだった。開業後5年で関東のリーディングトレーナーとなる。1992年にシンコウラブリイで初重賞(ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)勝利。翌1993年にはふたたびシンコウラブリイで初のGI(マイルチャンピオンシップ)を勝利。1997年にJRAの年間最多重賞勝利の新記録を達成(13勝)。1998年には管理馬タイキシャトルがフランス・「ジャック・ル・マロワ賞」を岡部の騎乗により勝利する
藤沢の定年まであと3年ほど。レイデオロで日本ダービー、ソウルスターリングでオークスも取ったし、引退前にさらに派手なことをしてくれないかとひそかに期待している。