馬の屠畜を「殺処分」と表現するのは避けたほうがいいのかもしれない

競馬や乗馬クラブから引退した馬が屠殺されることを表現することばとして「殺処分」を用いられることが多い。「馬 殺処分」で検索すると、引退馬関連のページが大量に出てくる。

このサイトでも、お肉に回すことを「殺処分」「処分」と、カッコつきで使っているが、便宜的なものである。少なくとも筆者の意識の上ではそうだ。

それにもかかわらず、意外と多くページで用いていることに、さきほど気付いた。リンク先のタイトルやまとめ、引用部分に含まれているものも多いが、それを勘案しても数が多い。

「殺処分」は本来の目的外に殺す(方法を問わない安楽死措置の)ことであって、お肉生産のための屠畜のことではない。

家畜の殺処分は家畜の病気などでの「処分」や、生まれたての雄のヒヨコを殺す際などに用いられる。育ちが悪く飼料代と釣り合わない個体や怪我をした家畜は早めに食肉処理場に出されるが、これは「早めの処分」であって殺処分ではない。

もし食肉生産のための屠殺を「殺処分」と表現するなら、と畜場は殺処分される家畜だらけである。

乳の出が悪くなった乳牛の「廃用」といった表現は「引退馬を救う!」という人も受け入れているので、「処分」も延長線上にあるだろうと便宜上用いてきた。

しかしよくよく考えてみると、この用法は好ましくないと思えてくる。

肉や皮といった畜産物生産のための牛豚の屠殺は殺処分とは呼ばれない。しかし馬は殺処分と表現される。同じ行為なのに異なるものと認識すると混乱の原因になるだろう。

引退馬に関しては「行き場がない馬」などと表現されることもある。「屠殺は、馬を救うという人たちにとっての正しい馬の行き先」ではないからだ。なぜ行き先のない馬が出るのか?その理由は過剰生産の他にはない。

殺処分ということばを用いると、どこかに「処分」を下した人への責任転嫁が生じる。

もし「殺処分」がおかしいというのであれば、馬の生産は減らすべきだろう。適正な規模になるまでは馬券も減らすべきだ。「おかしいこと」を全てなくすとまではいかずとも、減らすことは個々でできるのだ。

殺処分が競走馬生産のサイクルに入っている競馬に加担しておいて「おかしい」というのは、ステーキを食いながら「命は大切!牛を殺すなんてかわいそう」といっているようなものだ。

ふつうは「いや、食うのやめろよ」と突っ込むだろう。しかし馬だとそうはならない。

牛は人間の食べ物じゃないというヴィーガンに対して、あなたはどのように返事をするだろう。無視するのではないか?

牛は食べ物なのかそうでないのか。これをただの考え方の違いと済ませるなら、馬は人間の食べ物じゃないと言ったところで、考え方の違いでしかない。馬は食べ物と思っている人からは同じ対応をされるだけだ。

殺処分ということばによって好ましくない印象が形成されると、こういった当たり前の感覚が働かなくなるのだろう。

「殺処分」される馬を助けたい人は助ければいい。好きな馬の里親になるもよし、制度を変える努力をするもよし。同意できる人が増えれば、減る方向に進むだろう。

それでもことばの問題は残る。

どこまでが許容される範囲かの話をするときに、ことばの印象でゼロイチ思考になってしまうからだ。

便宜的にであっても「殺処分」や「処分」という語は用いないほうがよいのかもしれない。

そうは思うのだが、その馬の所有者による「処分」は必ずしも屠畜に向かうわけではないし、「処分」ということばを使わないと長ったらしくなってしまうので難しいところはある。

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